『溺れるナイフ』みた。

つんどく状態のなかから。きのうなんとなく『富江』を再読してて(そうだそうだ、Twitterのタイムラインに、へんな顔の巨大風船の写真が流れてきて伊藤潤二再読の機運が高まったんだった)、それでなんとなく小松菜奈が出てたのがあったなということで。原作ジョージ朝倉だし、なんか地方の閉塞感の中で切羽詰まった、みたいなかんじかと思ったら思いのほかそうではなかった。小松菜奈も顔がきれいという役ではあるけれど中身はいたってふつう、菅田将暉も金髪でやばそうな役かと思ったらいたって生真面目に田舎の神職の息子(でもないのか)の役割にまぁなんだかんだいって収まっている。なんかクライマックス的なかんじんのところで火祭りの踊りを延々とやったり、なんかイメージビデオみたいだったりするってのもある。まぁでも、たしかに溺れるみたいな場面もあったしナイフも出てきたので看板に偽りなしともいえる。

通勤電車で読む『スポーツが愛するテクノロジー』。もとエスノメソドロジーの人。ルールとその運用の曖昧さ、判定と採点、テクノロジーと「見え」の変容など。

著者の人は、むかし、ガーフィンケル論を書いていたので見覚えのある人。
ci.nii.ac.jp
で、スポーツとテクノロジーかぁ、と思いながら読んでみたら、テクノロジー論というよりは、著者自身言うように、「スポーツについてルールから考える」という本だった。スポーツは(ゲームは)ルールとその運用からできてて、でもルールや運用は曖昧さを含んでるから、判定とか採点がどのように実践されるかに注目するのは興味深いことで、ルールや判定や採点の組織的な実践を跡付けると面白いわけなのだが(新体操の採点ルールの変遷の歴史や、サッカーのVARや大相撲のビデオ判定の導入をめぐる議論など)、そこにまたテクノロジーがかかわることによって「見え」が変容するよ(テニスとかの「ホークアイ」というあの変なCGの判定システムは私たちに何を見せているのか)、みたいなお話で、これはエスノメソドロジーをやっていた人だなあというかんじなのだった。というわけで、これはいい本。
あ、そうそう、著者の人は世代的に自分とそんなに違わんのではと思うのだけれど、世代的に読んだんじゃないかと思う橋爪ンシュタイン=ハートの「審判のいるゲーム/いないゲーム」の話題が出てこなくて、種本は『キリギリスの哲学』という本ってことになってる。
人間にとって法とは何か - 橋爪大三郎 - Google ブックス
で、それでいうと自分もこのところずっと、囲碁とかスポーツをテレビで見ることについての研究をしたいなあと思って、ちょっと予告したり、また秋学期にそんな授業をやってみようかなと思ったりしてるので、ちょうど参考になる本が出てきたけど近すぎないかなあ、よかったけど困ったのかなあ、まぁちょっと焦点が違うからいいかぁ、と思っているところ。自分は、ルールの曖昧さとその運用みたいなはなしは校則論でやったのだけど、スポーツについては「見ること」と経験に照準しようかなあと思ってるのでたぶん別の話になると思う。

『肉弾』みた。戦争もいやだが戦後の軽薄な社会もいやだみたいなATG映画。

テレビで録画してつんどくになってたのをふと見た。なんか大谷直子だっけと思って、肉弾とは、と思いつつ見てみたら肉弾とは文字通り安物の人間魚雷のことだった。戦争末期で、丸眼鏡の寺田農が安物の人間魚雷から顔を出して海にぷかぷか浮いてるのだった。でまぁ回想シーンで全裸の寺田農が訓練をしたりしてるうちに特攻を命じられてどうのこうのというお話。でまぁ大谷直子は本作がデビューだそうで友達が勝手に応募したオーディションで合格したそうだ。でまぁけっきょく、寺田農があちこちうろうろしていろんな人に出会い、会話して、なんだかんだでけっきょく人間魚雷に乗って海にぷかぷか浮いてる現在に戻り、それでまぁどうなった、みたいなことで、戦争もいやだが戦後の軽薄な社会もいやだみたいなメッセージ性?があるかどうかはよくわからない。1968年ATG映画。前衛的なんだかいいかげんなんだか予算がないんだかもよくわからない。

通勤電車で読む『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』。

本屋さん本。Titleという本屋さんは、まぁたぶん界隈では有名で、以前、前著を読んでそれなりに好感を持っていた。
通勤電車で読んでた『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』。 - クリッピングとメモ
で、この本は、開店してしばらくたち、まぁコロナ禍にも遭いましたという日常の、まぁ連載コラムをまとめたみたいな本。ひとつひとつのコラムが3ページぐらい、で、まぁやはり趣味のいい本屋さんらしいじわっとくるかんじの趣味のいいコラムが並んでる。

『福沢諭吉』みた。

澤井信一郎監督の、何が目的で撮られたのかよくわからない福沢諭吉の伝記映画。むかしに録画してあったつんどくのDVDより。まぁ、大河ドラマみたいな感じで見られるかなと思って見たけどそうでもない。やはり2時間でまとめないといけないので大河ドラマみたいにゆっくりしていられないというのはある。いきなり福沢諭吉柴田恭兵で、立派な感じはしない。Wikipediaには、本作が制作された経緯とか書いてある。
福沢諭吉 (映画) - Wikipedia

福沢諭吉の崇拝者である雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が、古くから付き合いのある岡田茂東映社長(当時)に企画を提出し、岡田はまだ承諾していないのに、佐藤が「東映福澤諭吉を映画にするから賛助金を」と企業からどんどん金を集めて回ったため作らざるを得なくなった[5][6][7][8][9]。結局、全製作費を佐藤自身で用意するという約束で東映で製作を決めた

なるほど。
脚本が笠原和夫と聞くと期待してしまいそうなのだが、

岡田社長から笠原和夫に電話があり「おい、一万円やるぞ!」「はぁ?」「一万円や、お前、書け」と笠原が脚本を担当[6][7]。「どうしたらいいですか?」と聞いたら「どうでもいいから、とにかくパーっと景気にいい話にしてくれ」と指示された[6]。笠原は福沢諭吉が好きではなかったがやむなく脚本に取り掛かり、いつものように福沢の資料を山ほど集めたが、福沢諭吉自体は愛人も一人もいないような映画的な題材には面白みのない人で[12]、…

ということで、また、

笠原の第一稿は東映調のスペクタクルなシナリオだったが、澤井が気に入らず揉めた[11]。笠原は打ち合わせで初めて澤井に会うなり開口一番「笠原さん、私はドラマは要りません」と言われ、「ドラマがいらないならシナリオライターはいらないんじゃないか」と降りようとした。しかし岡田裕介に引き止められ、数日後再度話し合いが持たれ、澤井が「福沢が英語教師をやっていた話なんかをマジに描きたい」と言うから「そんなの画になるかね?」「それなら君が自分で書いたらいいじゃない」と言ったら「力を貸して下さい」と言うので、「福沢と子供の頃からの友人で、福沢と正反対のような人生を歩んでいる奥平壱岐を絡ませる話にしたらどうだ」と提案したら「笠原さん、私はそれを捜していたんです!」と言うから「バカ言ってるんじゃないよ、これはドラマじゃないか」と言ってやったなどと話している[6][7]。

だそうだ。もう一人の脚本家、桂千穂いわくということで、

桂は「これで監督が舛田利雄さんだったら、すんなり東映調の大作で成立したんでしょうが。東映京都撮影所(以下、京撮)の意向と、澤井さんのやりたいこと、それに笠原さん自身が描きたいテーマ。その三つの接点が見出せなくて、硬直状態になっていたようです。それであいつなら何か出るんじゃないかって、僕を巻き込もうということだったと思う」などと述べている[11]。桂は笠原の二歳下の同世代で似たような戦争体験を持ち話も合い、大半は桂が書いたという

だそうだ。まぁなるほどというかなんというか。