『奥さまは魔女』みた。ニコキさんが思いのほかサマンサだった。

先日BSでやってて録画したのを見た。映画のリメイクかと思ったら、どっちかというとあのテレビドラマのほうのリメイクだった。リメイクっていうか、おはなしはニコキさんことニコール・キッドマンが現代の人間界ハリウッドにやってくるところからはじまる。魔女をやめて普通の人として生きたい、とかいって、ホームセンターで壁紙の色でけんかしてる若夫婦なんかをうらやましそうに見てるかんじ。自分を必要としてくれるダメなかんじの男性がいないかなぁ、と、おかしな方向性に夢見がち。いっぽう、落ち目のアクションスターが、プロデューサー?から『奥さまは魔女』のリメイク版テレビドラマのダーリン役をもちかけられる。で、幼稚なスター風を吹かせて、サマンサ役は自分を引き立てる新人じゃないとだめだーとか突っ張ってみせて、でもオーディションに集まった女子たちはサマンサの鼻ぴくぴくができない。で、よわったなあといいつつ本屋さんなんかに行くと、そこにニコキさんも来ていて、『普通に生きる方法』みたいな本を読んで鼻をぴくぴくさせていて、これを見たダーリン役の男が一目でスカウト、あれよというまにニコキさんはよくわからないままサマンサ役に…とかなんとか。
でまぁ、たしかにニコキさんは思いのほかサマンサ感があって、しかも現代風で良いのだった(まぁ17年前の映画なんだけど)。むかしここに、ニコキさんのキメ顔のことを書いてて(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20110806/p1

ニコキさんには、いくつかの決め顔があって、眉を片方ひっ、と上げるとか、三白眼気味に真剣な目をするとか、くっと目を伏せるとか。

とか書いた覚えがあるのだけれど、まぁ本作はラブコメだし、ドラマのサマンサに寄せてるかんけいでちょっと暗くてシャープなかんじはたぶんおさえてて、でももともとのサマンサの、「おどろいて目をむいた顔」とか、当時の時代的なちょっとおおげさな顔芸みたいないみでの眉のひそめ方みたいなことは、ふつうにできるかんじで、よかった。やっぱなんだかんだいってニコキさん、いいですよね。(あとついでにいうと、プロデューサーの助手ぐらいのかんじの眼鏡女子がいつのまにかニコキさんの友達になってるのだけれど、悪くない)
れいによってWikipediaをみると、
奥さまは魔女 (映画) - Wikipedia
監督のノーラ・エフロンは『めぐり遭えたら』『ユー・ガット・メール』でメグ・ライアン映画を撮ってた人ってことで、そうそう、これニコキさんでいいんだけど、鼻のかんじはメグ・ライアンでいいよなあと思いながら見てたらやっぱり、ってかんじ。また、ダーリン役がいまいちはまらないかなあと思ったら、「元々ジム・キャリーを予定していた」のだそうで、はいはいそれならわかるわかるというかんじ。

通勤電車で読む『ジェネレーター』。ファシリテーターはもう古い?

先日、職場で同僚の先生と喋っていたら、ファシリテーターとかコーディネーターとかそういう話題の中で、「ジェネレーター」という語が出てきた。知らなかったので、すいませんといってどういうものか聞いて、なるほどねと思い、あとで検索をしたらこんな感じだった。
note.com
「「ジェネレーター」(generator)というのは、いまから10年くらい前に、僕(井庭崇)と市川力さんとでつくった新しい概念だ…」
ほうほう、というわけで、本を発注してから、とりあえず同じ著者の以前研究室に買ってあった本を読んでみたり(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/06/14/192456)してたら本が届いて、通勤電車で読んだ。
で、ファシリテーターではないのだということのようで、最初の章の最初の小見出しが「ジェネレーターは内側に入って、ともに活動する」とあり、ファシリテーターは「はい、みなさんやってみましょう」と促すが自分は活動に参加しない、ジェネレーターは一緒に参加して盛り上がりを作る人だ、ということのようだ。同僚の先生が言うてはったのもそのへんのことで、ひとまずは納得する(でもまぁちょっとファシリテーターを悪く戯画化しすぎてるとは思う。「はいみなさんやってみましょう」だけ言ってあとはほっておくようなファシリテーターがもしいたらそれはたんにダメなファシリテーターってだけのことだろう)。
それでしかし、読みながらなんとなく考えているうちに、ジェネレーターというのは、ファシリテーターが場のなかでメンバーをそのような状態にもっていきたいところのものであるじゃないか、という気がしてくる。ファシリテーションがうまくいくとき、場の中で参加者の活動が促進されて、お互いに触発しあいながらそこに新しいものが生まれてくる、というのであれば、そのとき参加者たちはジェネレーターになっているよといえるだろう。ファシリテーターは場を作るし、場のなかで起こることをうまく拾っていって場の参加者たちをジェネレーターに変えていく ー メンバーが相互触発しやすいような場を作ることで場のみんながジェネレーターになっていく ー みたいな。この本の中で、「教育場面におけるファシリテーターのマインドとジェネレーターのマインドの使い分け」という節があったり(p174)するように、この本でいうジェネレーターにもファシリテーター的な側面が含まれているだろうし、また、「プロジェクトの場にジェネレーターは何人いてもかまわない」(p184)わけで、「ファーストジェネレーターが現れることによって、参加者もジェネレートされ、…だんだんみんながジェネレーター的なふるまいをしてゆくようになる」わけなので、いきつくところは理屈の上ではファシリテーターでもジェネレーターでもさほどちがわんような気がするなあという気になってきた。
しかしまぁ、実際に具体的な場面で、ファシリテーターの立ち位置じゃなくて活動の中で周りを活性化させるジェネレーター的な人、というのはげんにいるわけなので、具体にそくしていえばジェネレーターとファシリテーターの違い、というイメージはよくわかる。
えーとたとえば、新庄が大リーグから日ハムに帰ってきて日本シリーズでホームスチールを決めてお祭りみたいなムードになってパリーグが勝利してお立ち台で「パリーグ最高!」と言ったみたいな記憶がある、あのとき新庄はチーム全体を躍動させるジェネレーター的だったなあと思うし、その新庄がビッグボスとして日ハムの監督になって、最下位ながら面白いチームをつくりつつあるんではないか的なはなしは、ファシリテーターだなあと思うわけである。

しかし、また考えてるのだが、「ファシリテーター」についてのおはなしは、どんな場にするか、そのためにはどんな技術が有効か、みたいな話になりやすい。技法論になじみやすいというか。で、「ジェネレーター」についてのおはなしは、自分がなっちゃうというはなしなので、技法論になじみにくい気はするな…。

通勤電車で読む『対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得』。パターンランゲージに落とし込んだ「使う」本、ということのよう。

本の形がほぼ正方形。内容的にはオープンダイアローグから抽出した「対話」のための心得集というかんじか。オープンダイアローグから「対話の本質」を30個の「ことば」として抽出してパターンランゲージの形式に落とし込んだ、ということのよう。一項目がひと見開きになっていて、見開きの形式も決められている。読む本、というより、「使う」本だよ、ということのようで、それがつまり正方形の版型にも表現されてるってことだろう。まぁ、読んだかんじではオープンダイアローグの入門(ていうか正確には、タイトルの通り、オープンダイアローグに学ぶ対話、の入門ということか)なのだけれど、そのように読む限りでいえばまぁふつうのことが書いてあるし、ふつうのことが書いてある限りでいえば普通の形式で読める本になってたほうが読みやすいだろう。なので、この本の評価は、パターンランゲージの形にしたというのをどう見るか、ってことになるだろう。で、自分的なパターンランゲージのイメージというのが、生成文法みたいなもので、つまり限られた語彙・文法の組み合わせで無限の文を生成する、というのとおなじように、限られた語彙をパターン群として把握しておいてその組み合わせで実践を生成する、みたいなイメージ。それでいくと、本書は、ちょっとオープンダイアローグの流れに沿いすぎてるんじゃないか、自由に組み合わせ可能な語彙集というかんじではなくて、いろいろな次元のことがらが「ことば」として同列に並べられてて、これをじっさいに「使う」にはけっきょくオープンダイアローグの流れに沿いながら随時、「心構え」として参照するってかんじになるんじゃないかなあ、という印象がなくもない。でもまぁ、自分的なパターンランゲージのイメージがずれてるのかもしれない。

通勤電車で読む『日本の居酒屋文化』。サードプレイス本の解説を書いていた人の新書。

先日、『サードプレイス』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/05/24/113838)を読んでたら解説のほうに納得感があって、たしかにあの本はノスタルジー的なところがあったし欧米だけが視野に入ってたところがあったわけで、じゃあその解説の人の本を読もうとなるわけで、日本のリアルタイムのサードプレイスとしての「居酒屋」に注目するよという著者の新書本。でまぁ、もう少しサードプレイス論をごりごりやるのかと思っていたら、居酒屋をふくめた日本の酒場について、いろいろ紹介しながら特性を語っている。サードプレイスという言葉ももちろん出てくるのだけれど、この本で正面から日本版サードプレイス論を展開しますというかんじではなさそう。たとえば、居酒屋というのは、仕事帰りにほっと一息できる小さな居場所、というかんじで、電車通勤の途中で立ち寄るみたいなところだとすれば、『サードプレイス』でいうようなコミュニティ形成の拠点というかんじでもないし、そもそも自宅から徒歩で通えるような生活圏内にあるわけでもない。それをサードプレイスと呼ぶことが、元の論者の議論の狭さを修正することになるのか、あるいは、もともとのサードプレイス論の出てきた必然性というかやりたかったことの中心をはずしてしまうことになるのか、まぁちょっとむつかしいところだろう。以前、学生さんがサードプレイス論ということで卒論を書いたときに、どうも世間的にサードプレイスという言葉が広がってると同時に意味もそうとう拡散してるんじゃないかという感触があって、まぁそれはそれで面白い。

通勤電車でとばし読む『映画を早送りで観る人たち』。いわゆる可分性(dividual)の世界というか。

内容的には「さいきんの若者は映画を早送りで見るらしい」というところから、なんでそうなるのかという原因を3つぐらいあげてる。まぁ目次が細かく書いてあるのでそれを見るとだいたい内容はわかる。そもそもコンテンツの供給過剰であるということ。みんな忙しいのでコスパないしタイ(ム)パ重視になる。失敗したくなくて良いものだけ見たい。セリフで全部教えるような作品が増えてる。コンテンツの快のぶぶんだけ摂取したいので不快なところは予習してとばしたい。等々。で、全般的な著者の人の空気感は嘆き節だが、最終的には、これも時代だよなというかんじ。昔は「レコードなんか音楽じゃない!」とか言ってたのに今は…というのと同じ理屈になるよ、等々、というのがオチ。以上ネタバレ紹介。

通勤電車で読む『10歳からのプロジェクトマネジメント』。くもん出版が出してるマンガでわかるPM入門@こども。

Amazonのおすすめだったか?目の端をかすめて、おや?これはおもしろそうかもと思って読んでみた。くもん出版が「くもん これからの学び」とかいうシリーズで、マンガでわかる的な小学生向けのプロジェクトマネジメント入門。すべての漢字にふりがながうってある。事例が、なつやすみの自由研究を完成させるとか、お母さんにサプライズプレゼントをするとか、クラブの発表会をするとか、まぁ小学生なかんじなマンガになっている。で、内容的には、ウォーターフォールのプロジェクトマネジメント。いろいろな書式のワークシートについては、QRコードが載っててデータでダウンロードできるよと。入門の教科書なんでべつに目新しいことは書いていないと思うけれど、でもちゃんとした入門の教科書だと思った。小学生がこれをやるのかよと思わなくはなかったけれど、しかし、たぶんくもんであれこれやるような小学生にはこういうのに関心を持つやつもおるのやろう。教育格差が…どうのこうの…という暗い連想も働くわけだけれどそれは大きなお世話である。まんがでわかりやすいわけなのでやりたいやつは読んで実践すればよいだけのはなしだろう。