殺し屋加藤の絶局の棋譜

http://www.asahi-net.or.jp/~bg2t-tkg/nhk/nhk5.html
志強さんというかたが「EMPAT PULUH」というサイトで公開しておられます。

12月2日、天元戦1回戦で結城九段と対局、大石を殺して中押し勝ち。
西日本新聞の追悼記事↓
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20041231/news010.html

加藤正夫氏死去 棋院改革夢半ば 対局、普及すべてに全力
 三十日亡くなった日本棋院理事長の加藤正夫さん(57)は何事にも全力を傾ける棋士だった。それが、対局の傍ら、日本棋院理事長として改革の先頭に立つ激務を呼び込み、早すぎる死を招いたのではないか。

 最後の対局は二日に打たれた第31期天元戦(西日本新聞社主催)。相手は棋聖戦の挑戦者となった若手の旗手・結城聡九段だったが、先番百七手で中押し勝ちした。その五日後に倒れた。

 「僕は対局すると体重が減るんです。タイトル戦では一〇キロ近くも」。それほど加藤さんは、自分が大切にしているものに心身を使い果たした。

 日本棋院の改革では、大手合を廃止、予選システムを見直した。大手合で決まる段位とタイトル戦での活躍が一致せず、疑問視されてきたものの、“慣例”に手を付ける人はいなかった。

 棋風を“殺し屋”と評された加藤さんがそこにメスを入れたのは、改革は、まず棋士自身のえりを正すことからという信条と囲碁への限りない愛情の表れだった。

 一方、囲碁の底辺拡大が囲碁界発展にもつながるとして、普及活動でも先頭に立った。郷里の福岡市に帰ったときには、小学生を対象とした囲碁教室を欠かさなかった。

 加藤さんの実家は福岡市中央区六本松の商店街にあった碁会所。ここに下宿していたのが当時アマ強豪だった岡光雄さん(72)=日本棋院七段、福岡県春日市。加藤さんはその縁で故木谷実九段に入門。岡さんは「武士の商法のようなところがあった棋院の改革に積極的だった。この秋、福岡市で開いた理事長就任の祝賀会でも“頑張らないかんね”と話したばかり」と加藤さんの死を悼んだ。 (文化部・竹原元凱)

■悲しさを通り越す 大竹英雄名誉碁聖の話

 思いもかけないことで気が動転している。囲碁界の先頭に立ってみんなを引っ張ってくれていた。囲碁界にとっての財産を失った。何とも悔しいというか、悲しさを通り越している。