永井×小泉『なぜ人を殺してはいけないのか』、哲学ってなぁ・・・

晩に途中まで、で寝て、あと寝起きに枕元に手を伸ばして残りをさくっと読む。

けっきょく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、正確に立てられた問いではないのだし、とりわけ哲学にとってはそうだということなのだと思う。
社会学のでばんだと思う。
デュルケームが自殺について言ったことが参考になる。自殺は社会的次元で、一定の自殺率で発生するものとして見出されるのであって、個々の自殺者の主観的な動機はあてにならんものである。いいかえれば、自殺を企てた者は、「自殺していいのか、自殺してはいけないのか、それはなぜか」みたいな問いを自問自答するだろうし、それに対して、いろいろな主観的動機を提起して自殺の必然性を自分に説得したりもするのだろうけれど、そんな次元が問題なのではなくて、自殺は社会的次元で一定の自殺率で発生するんである。それを個人の行為の次元に照準して記述しようとすると、「自殺していいのか、自殺してはいけないのか、それはなぜか」みたいな主観的な問いやらそれに応じた主観的動機付けやらによって自殺が個人の次元で主観的に決断され行為されておるように見えてしまう。いいかえれば、自殺することの是非が規範として個人の実存に対して与えられ、個人の実存がその規範に対してどう応じてそのけっか自殺するとかしないとか、そういう個人のみのまわりのおはなしに終始してしまう。これは事態の把握の仕方としてまちがっておる。
殺人というのもおなじで、個人の中での規範と実存の対決、みたいな構図で論じてもしゃない気がする。人を殺していいとかいけないとか、いいからやるとかいけないからやらないとか、いけないのにやるとかいいのにやらないとか、そういう次元でぐだぐだいっていてもしゃない。
なので、この「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを(狭い意味での?)哲学の問いとして吟味していくことは、できなくて、問いをずらすことが正解、みたいなことになるんじゃないかとおもう。
永井は、れいによって独我論的な構図から素手で展開していって、そこに永井流ニーチェ論(好きになれん)をひびかせつつ、くだんの問いがぐるぐる循環するところまでを追及している。問いに対するきびしい姿勢はかっこいいけれど、全体的には、いつもながらの永井流だなあ、という印象。
小泉は、なんかいろいろな次元の論点を提出して、レヴィナスみたいな「応答」みたいなことをいってみたり、デリダみたいな?「食べること」の論点をだしたり、しているけれど、その中のひとつの論点として、まんまエスノメソドロジー的な規範論を出しているところがあるのが、おもしろいというか、ほらやっぱり社会学がでてこなきゃいかんやん、と思ったりした。