出てくると思った。「イチローになれなかったヒデ」っていう記事。やれやれ。

http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20060623&a=20060623-00000018-maip-spo

W杯日本代表 その目は赤かった…中田選手のW杯終わる
2006年6月23日(金) 17時22分 毎日新聞
 【ドルトムント篠原成行】試合終了後、センターサークルまで歩いた中田英寿選手(29)=ボルトン=は、突然しゃがみ込んだ。崩れるようにあおむけになると、両腕で顔を覆ったまま5分以上動こうとしなかった。すべての選手が去った後、ゆっくりと立ち上がり、スタンドのサポーターに向けて両手を挙げた。笑顔を浮かべてはいたが、その目は赤かった。1対4の大敗。3大会連続出場となった中田選手のW杯は、不完全燃焼に終わった。
 ドイツ入り後、明らかにいらついていた。「走るという基本ができてない」「戦う準備が足りない」。味方への批判と取れる言葉がたびたび漏れた。選手だけの食事会の翌日の練習でも、仲間とほとんど会話せず、アップも1人で行った。
 68年のメキシコ五輪で日本を銅メダルに導いたデットマール・クラマーさん(81)が大会直前、「問題なのは選手の半分が中田の考えを好きではないこと。チーム内で中田がどう振る舞い、仲間が中田をどう扱うかがカギだ」と話し、示していた懸念。それは、中田選手のそんな振る舞いに、現実となって表れていた。
 ただ、試合に臨む姿勢は誰よりも激しかった。4日のマルタ戦(親善試合)では1人、気を吐き、ジーコ監督から「中田はいつでも同じ気持ちで全力を出せる」と絶賛された。18日のクロアチア戦でも攻守の核となり、最も活躍した選手として「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。
 中田選手と同様に「孤高」と称される存在に、イチロー選手(マリナーズ)がいる。今年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、意外なリーダーシップを発揮した。練習中から仲間に積極的に話しかけ、2次リーグの米国戦では円陣の中心で「歴史的な日にしよう」と叫んだ。世界で活躍する大黒柱の熱い言動に、がけっぷちのチームは一丸となり、世界一を手中にした。
 試合後、中田選手は「まだまだ力が足りないことを実感した。この結果を素直に受け止めて次につなげていきたい。W杯は1度目(フランス大会)は何だか分からず、2度目(日韓大会)は地元開催だった。今回は本当に戦っている気がした。こういう結果になって残念だ」と語った。
 結局、世界を知る彼の厳しさを日本代表の他の選手は最後まで理解できず、彼自身も仲間と一定の距離を保った。中田選手はイチローになれなかった。そして、WBCの奇跡は、W杯で再現されることはなかった。
[ 6月23日 17時22分 更新 ]

やーでも、サッカーはわからんけれど、むしろ中田は気の毒なほど走り回ってたように見えるですが。新聞のどこかのコメントで、中田にばかりボールを集めて、あれじゃばててあたりまえだったみたいなことが書いてあって、やっぱしそうかなと思った。
野球にせよサッカーにせよ、「円陣の中心で「歴史的な日にしよう」と叫んだ」ぐらいで勝てるような精神主義が通用するわけもないだろうにねえ、じっさいにどうやってプレーするかだよなあ、
そしたら、だいいちイチローくんって、基本的にチームを勝たせるタイプではなくて、いまだってマリナーズは勝てていないのだけれど、たしかにイチローくん個人の打率だのレイザービームだのはすごいんではあるにせよ、攻守の要どころか、クリンナップですらないわけで、内野手ですらないわけで、まぁ野球なんでサッカーとは違うのだけれど、攻守にはしりまわっていた中田と、カメラの前で見得ばかり切っていたイチローくんとをかんたんに比較するのはアレだなあ、
でもぜったいこういう記事は出るだろうなあ、と思っていたらやはり出た。やれやれ。
だいいち、大リーグの出場辞退者が続出したようなWBCとサッカーのワールドカップを比較するのも無茶なはなしだし、
まぁ世界水準の中での日本の野球ランクとサッカーランクを公平に見たら、まがりなりにもドイツまで辿り着いただけでもおんのじだと思うのだけれど、
まぁ、1次リーグで勝てなかったことを以って、「イチローになれなかったヒデ」っていわれちゃうんだろうね。
試合終わって、ピッチに仰向けになって涙目になってたのを見ると、やっぱしぐっときたけどね。

こっちの記事のほうがしっくりくるな。
http://www.sanspo.com/soccer/06worldcup/news/w0623sokuho017.html

W杯に涙の“別れ”−中田英、ピッチに倒れる
中田英寿選手は泣いていた。1−4で完敗したブラジル戦後のピッチ上。1人、センターサークルであおむけになり、動かない。ブラジル選手と交換した黄色のユニホームで顔を覆った。主将の宮本恒靖選手らに促されても体を起こさず、約10分後にようやく立ち上がった。観客席に残っていた日本サポーターにあいさつして、去った。

自身の公式サイトで、このW杯が自分にとって最後のチャンスだろうとした上で、2002年大会の不完全燃焼を晴らしたいと書いた。試合中に痛めた左手を布でつって報道陣の前に現れた中田選手は「最大限の力を発揮していれば、こういう結果にはならなかった」と言った。

ピッチの涙は、競技場内に引き揚げてからも消えなかった。1993年の17歳以下世界選手権から世界で戦ってきた中田選手を、日本サッカー協会川淵三郎会長は「通路でも泣いていた。よほど悔しかったんだろう」といたわった。

チームは第1戦で、後半39分から3失点して逆転負け。第2戦も決定的な得点チャンスを逃して引き分けた。「奇跡」を信じて立ち向かった「王国」ブラジルには、先制も及ばず粉砕された。

昨年3月25日、W杯アジア最終予選でイランに敗れた。中田選手は「1対1で負けている。個人個人のところを見直した方がいい」と、同僚の闘う姿勢を問いただした。日本サッカー界をリードする選手として、欧州で活躍してきた。本場で肌で感じたサッカーの原点である「闘争心」を訴え続けた。

しかし、他の選手とはどこか温度差があった。激しい口調で仲間と論争する姿に、一時は「不要論」も持ち上がり「自分が今の日本代表に本当に障害となるのならば、辞退してもいいとさえ思う」(公式サイト)と思い詰めたこともある。

日本選手で初めて、年齢別を含む世界選手権すべてに出場した。29歳で迎えた3度目のW杯に懸けた中田選手の理解者は、ブラジル代表として3度のW杯に出て、不本意な結果に終わったジーコ監督だけだったかもしれない。同監督は背番号7を「力を出し尽くしたのではないか。ショックだったのだろう。わたしにも分かる」とねぎらった。(共同