内田良「児童虐待とスティグマ-被虐待経験後の相互作用過程に関する事例研究-」

↑上の記事の続き。
「虐待の世代間連鎖の可能性」なんつっても、それはもともと精神分析とか心理カウンセリングのような個別ケースについて言うことであって、
個別ケースについて治療的にかかわる際には、たしかにクライアントの被虐待体験なんかが重要になってくるケースもあるんだけれど、
それをあたかも一般的であるかのようにして「虐待の世代間連鎖の可能性」なんつって言いふらすのは、あきらかに逆効果で、被虐待経験を持つ人たちを、トラウマで歪んだ虐待予備軍として印象づけることになってるんである。よろしくない。

内田良「児童虐待スティグマ-被虐待経験後の相互作用過程に関する事例研究-」
『教育社会学研究』巻号 68 / ページ187-206 / 出版年 20010515
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/QuotDisp?USELANG=jp&DOCID=110001878000&DispFlg=2
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ついでにいうと、個別のケースで臨床的に接するときに、分析のなかで「私は虐待されてました」みたいなことをクライアントが言ったとしても、それはあくまでクライアントの「心的現実」である、ということもある。つまり、いわゆる「客観的現実」の世界では、虐待の「事実」はなかったとしても、クライアントにとって「虐待」が「あった」としたら、それは「あった」のである(いずれにせよそのことがクライアントの現時点での心的トラブルを構成している、ないし、心的トラブルからの脱出の試みに関係している、等々、であることは確かなのだ)。でもそれは、いわゆる「客観的現実」での虐待とは違うんである。
よく知られるように、この「心的現実」での「虐待」と、いわゆる「客観的現実」での虐待の事実とを(意図的か無意図的かはおくとしても)混同することによって、アメリカでは幾多の訴訟問題が起こっているとかなんとか。