加藤秀俊 著作データベース「昭和・平成世相史①饒舌列島日本の言論」言論の自由と不自由

なんかどっかの本で、だれかが、柳田国男の名前を挙げながら、農村社会の日本人は長い文章を喋るということをしなかったとかなんとか、書いてたなあ、というおぼえがあって、柳田をしらべなきゃと思っているうちにそもそもその本が誰のなんという本だったのかを忘れてしまったわけなのだけれど、googleでてきとうに検索をかけていたら、こういう文章がみつかった。
加藤秀俊「饒舌列島日本の言論」という文章。
えーと、「加藤秀俊著作データベース」というおそるべきデータベースがあって、
http://homepage3.nifty.com/katodb/
ものすごい量&質のテキストが公開されているんである。
でそんなかから。

http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/1275.html

昭和・平成世相史①饒舌列島日本の言論
発行年月: 19940101
掲載  : 中央公論 1月号
発行元 : 中央公論社

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言論の自由と不自由        加藤 秀俊

    一、寡黙の伝統

 むかし日本人は寡黙であった。しずかであった。
 そのことは国立国語研究所が一九四九年から一九五〇年にわたって福島県白河村、山形県鶴岡市でおこなった言語生活調査からもあきらかである。敗戦後わずか五年という窮乏期にありながら、研究者たちはこれらの地域での日常会話を克明に調査し、貴重な記録をのこしてくれている。これらの調査は統計数理研究所と共同でランダム・サンプリング法を導入した画期的な研究であったばかりではなく、現在から将来にわたる日本人の言語生活をかんがえるうえでのすばらしい成果であった。
 この調査によると、たとえば鶴岡市のばあい、ひとりの商店主が一日にはなす「自立語」の数は二八九一語であることがわかった。自立語というのは「単語」といってよいのだろうが、たとえば「きょうはいい天気ですね」という発話は「きょう」「は」「いい」「天気」「です」「ね」というふうに六つの自立語に分解される。その合計が二八九一だったのである。ずいぶんたくさんはなしていたようにみえるけれども、いまあげた事例からもわかるように、ほんのちょっとしたあいさつ語だけで六語になるのだからこの数字は寡黙の証拠なのである。
 比較のために、現代日本のもっともすぐれた話者である小沢昭一さんの「小沢昭一的こころ」をラジオできいて、それを分析してみたら一分間で三〇〇文節になった。つまり、かっての平均的日本人の一日のはなしの量を時間換算すると合計わずか一〇分たらずだったのである。
 そればかりではない。その二八九一語のうち、おなじことばが何回もつかわれていた。たとえばこの商店主のばあいには「はい」「いー」「うん」といった返事や合づちの語が合計二一五語。語彙の種類は九一九であったにすぎない。そしてそれぞれの文のながさはおおむね六語以下。さきほどみたように「きょうはいい天気ですね」というあいさつが六語だったから、このていどのみじかい発話が大半だったとみていい。じじつ、この商店主が一日につかう文の数は一三四七と報告されているから、たぶんかれは「はい」「うん」といった一語の文でたいていの用を足していたとみてよい。
 鶴岡市の調査では大学卒の高級公務員も調査対象になっている。かれのばあいには商店主より一日あたりの発話数はおおい。それでも独立語数は五五二八。語彙の種類は一四九七、そしておどろいたことに「はー」という返事が四四三、「そー」が一八二というふうに、定型化された返事などの頻度がたかく、発話数は一九八三、文のながさにいたってはたった一語だけの発話が半数である。たぶん、高級公務員だから「そう」とか「はー」とか一語でひとと応対していたのだろう。会話といっても、このていどしか口をひらいていなかった、というのが半世紀まえの日本人の言語生活だったのである
 白河村のばあいには鶴岡より発話数はおおかったが、ここでの農家のひとびとの発話の大部分は「あれ」「それ」「これ」といった事物の代名詞であって、文節をもった「文」などあまり見あたらなかった。これらの報告書には記載されていないが、この調査にかかわったひとりの関係者からの伝聞としてわたしはこの村での農家のわかいお嫁さんなどは一日じゅうひとことも口をきかなかったというはなしを耳にした記憶がある。
・・・

ほうほう。
で、さっそく柳田が引いてある。

そこでおもいだすのが柳田国男の『世間話の研究』である。このなかで柳田はこんなふうにいう。
 「ハナシは我々の国家に於いては、非常に時おくれて発達した生活技術であった。其証拠には古事記風土記万葉集は素より、ずっと降って中世の文献を引き捜して見ても、ハナシという単語は見当たらぬのみか、精密に是に該当する日本語さえ無かったのである」
 「”おい話をしちゃいけないぜ”と、今でも働く人たちは互いに之を戒めて居る。”むだ口”というものも今では話の中に算えられて居るが、それも本来はよくよく力のいる技術であったと見えて、話をする者のみか、聴く者さえも普通は手を休める。だからいつでも(話と)仕事とは両立しなかったのである」
 「言語は式の日や人間の大事に、堂々と利用するものだから、常の日には粗末に使はぬということも有った・・・から、村では久しい間短句と感投詞を重んじ、会話と名の付くものはただ若干の、特色ある人々の役目に限られてあったのである」
・・・

で、行きがけの駄賃とばかりに教育学者への厭味。

そんなふうにかんがえてくると、このごろ教育学者や評論家が「家庭のなかの会話がすくなくなった」などといっているのは錯誤であって、もともと家族だの村落だのといった緊密な結合をもった小集団ではべつだん「会話」などというおおげさなものは皆無であった、とみるほうが文化史的にはただしい。じじつ柳田はすでに大正から昭和初期にかけての都市の家庭内の新世相を観察して「女房や妹たちにも、何か話をしなければならぬことになったのは西洋風である」と断定していたのである。
・・・

いい感じだと思っていると、さらに先のところで、探していた柳田の言葉はこれだろうというのが引かれていた。

 日本全国にはりめぐらされている電話網をかんがえてみてもよい。鉄道の駅などではそこに配置だれている数十台の公衆電話はつねに満員である。それぞれに用事があるのだろうが、あらゆる種類のおしゃべりがつづく。それにくわえてさいきんでは携帯電話が発達したので、ところかまわずポケットから携帯電話をだしてしゃべりつづける人物にもしばしばお目にかかる。列車のなかでは使用しないように、と車掌さんからアナウウンスがあるのだが、そんな注意に耳もかさず、くだらないおやべりをしている。そういう乗客のとなりにすわると、ほんとうに腹がたつのだが、どうにもしかたがない。
 放送や通信の世界だけではない。日常のわれわれの世界でも饒舌がはじまった。寡黙な人間は「話題にとぼしい」人間としてマイナスの評価をうける。会社などの組織社会では会議がしばしば開催される。そんなとき、べつにアイデアもないのに発言をもとめられる。その内容にはいっこうにかかわりなく、しゃべること、しゃべりつづけることが強制されるような世相がうまれてしまったのだ。
 そのようなおしゃべり文化の発生についても柳田国男はかねてから気がついていた。かれは『涕泣史談』のなかでこういう。
 「現今は言語の効用がやゝ不当と思われる程度にまで、重視されて居る時代である。言葉さえあれば、人生すべての用は足るといふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂う所の無口とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしゃべりと謂ってもよいのである」 
・・・