「教育ルネサンス 市民力を鍛える(6)法教育 法曹から助言」

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20090723-OYT8T00258.htm

(6)法教育 法曹から助言


模擬裁判で裁判官や弁護人、裁判員らを演じる生徒と指導役の井上弁護士(左から4人目)(6月2日、福井市の福井大付属中で) ルールがなぜ作られるのかを教えることで、規範意識を育む。

 「証人は被告の親友だから、かばいたくなるんじゃないかな」「被告も証人の話も疑わしいけど、それだけじゃ有罪にできないよ」

 6月2日、福井市福井大学付属中学校で、3年生の授業として開かれた模擬裁判。森田史生教諭(41)が時間切れを告げても、判決を検討する議論はやまなかった。

 模擬裁判は、30歳代の男性が福井市内の電器店で人気のゲームソフトを盗んだ疑いで逮捕、起訴されたという設定。生徒たちは、「裁判官・裁判員」「検察官」「被告・弁護士」など役割ごとに八つの班に分かれ、男性のアリバイや警察に自供した点などを争点に裁判を進めた。

 結審後、班ごとに結論を発表したが、「有罪」としたのは「傍聴人」の二つの班だけで、他の班はいずれも無罪だった。

 模擬裁判の指導役で、福井市内で開業する井上毅弁護士が「皆さんの顔に正解はどっち? と書いてあるけど、この話に正解はありません。自分たちが人を裁くことについて考えるのが大切です」と授業を締めくくった。

 被告役を演じた藤井大君(14)は「みんなに囲まれて緊張したし、被告の気持ちが少し分かった。自分が裁判員になったらそこまで考えて判決を出したい」と話した。


 森田教諭や井上弁護士は、福井法教育研究会に参加している。模擬裁判で使ったシナリオも研究会が作ったものだ。法教育の目的は法律の知識を学ぶのではなく、法的なものの考え方を身に着けることに主眼を置いているという。

 中心メンバーの橋本康弘・福井大准教授は、背の小さい人が常に前に並ぶ背の順のルールの是非を考える授業や、廊下を走らない、人の悪口を言わない、給食を残さないの三つの決まりに優先順位をつける授業などを身近な法教育として例示。「生徒がルールの意味を理解し、納得した上でルールを受け入れることが重要だ」と説明する。

 しかし、法的なものの考え方に慣れていない学校の先生が多く、学校で法教育を行う難しさを感じている。背の順のルールを取り上げてはと提案すると、「議論することによって生徒たちが整列しなくなると困る」と難色を示す教師もいたという。

 今年5月に始まった裁判員制度をきっかけに、検察官や裁判官が模擬裁判に参加するなど、法の世界と一般との接点が増えた。井上弁護士のように学校現場に足を運ぶ人もいる。授業の進め方についても、法曹関係者の助言を期待する声は強い。

 授業時間の確保も課題だ。森田教諭によると、同大付属中は模擬裁判も含めて年に10時間を法教育に割くが、一般的に、社会科の中で法教育に該当する部分は3、4時間しかない。森田教諭は「公立の中学校でも社会科の時間に法教育ができるようにしたい」と話し、内容を圧縮した授業モデルを検討している。(塩見尚之、写真も)

 裁判員制度 殺人や強盗傷害などの重大な刑事事件の裁判に抽選で選ばれた20歳以上の国民が参加する制度。今年5月21日に始まった。裁判員6人と職業裁判官3人の構成で、有罪か無罪かの事実認定と有罪の場合の量刑を多数決で決める。8月3日にも最初の裁判員裁判が開かれる予定になっている。

(2009年7月23日 読売新聞)

ちょっとおもしろい。

法教育の目的は法律の知識を学ぶのではなく、法的なものの考え方を身に着けることに主眼を置いているという。

ちうのはそんなところかなあと思うのだけれど、

しかし、法的なものの考え方に慣れていない学校の先生が多く、学校で法教育を行う難しさを感じている。背の順のルールを取り上げてはと提案すると、「議論することによって生徒たちが整列しなくなると困る」と難色を示す教師もいたという。

という現場の気分もわからんでもない。これ、「学校の先生は法的なものの考え方ができないアホで生徒を不当に支配しようとする非民主的な連中だ」みたいな理解の仕方をしていてもしょうがないだろう。

背の小さい人が常に前に並ぶ背の順のルールの是非を考える授業

をやったとして、「是非」っていういいかたがいかにも微妙なのだけれど、ごくふつうに考えてこの整列の「ルール」が必然的に正しいといういみでの「是」であるか、といわれれば、「是」じゃなかろう、という結論が出そうな気がする。それは法的なものの考え方ということでいってもそうなんじゃないだろうか。たとえば日本国憲法を改正して「背の小さい人が常に前に並ぶ背の順のルール」を盛り込む機運が高まったら、この法教育の先生だって全力で反対するだろうと思う。整列のときのルールなんて、いかにも恣意的なものなんだから、それじたいについて是非を考えたって、ちゃんと考えれば考えるほど意味ないと思う。それを範例としてそこから一般化をすると、「法ってもんはそれ自体には意味はない恣意的なもので、にもかかわらずみんなが従っている」みたいな理解の仕方におちついちゃうんじゃないか。この「みんなが従っている」という事実性が、デファクトスタンダードとして、法の効力の源泉にもなっているのだろうけれど、同時に、「いま従われているこのルールを自分が覆すことができる」という可能性があることもまた、法の正当性の源泉になっているんじゃないっけ。すくなくとも民主的ということになっている社会では。覆すことができる可能性があるから、自分で選んだという言明に意味が出てくるんであって。
なので、

「生徒がルールの意味を理解し、納得した上でルールを受け入れることが重要だ」と説明する。

という法教育先生の説明は、いかにもトンチキに見える。「ルールの意味」を「理解」したら「納得」できなくなっちゃうかもしれないし、「納得した上で」あらためて「ルールを受け入れる」ことを拒絶したくなるかもしれない。
「背の小さい人が常に前に並ぶ背の順のルールの是非を考える授業」をやったら「生徒がルールの意味を理解し、納得した上でルールを受け入れる」ようになった、としたら、それは教師が生徒に気付かれないように既定のオチに向けて誘導したんだろうな、それとも、生徒たちが隷属的発想から逃れられないように普段からよほどマインドコントロールしてるんだろうな、(でもまぁ実際の学校ってそんなとこなんだろうけどな)、とまぁ、思う。学校の先生というのは、そういう力技をやってそれで学校を成り立たせてるわけで、それはやはりたいしたことだとおもう。そういう、水面下の白鳥の足の動きみたいなんをすっとばして法教育先生が(あるいは新聞記者が)「法的なものの考え方に慣れていない学校の先生が多い」なんて非難がましく言ってるとしたら、ずいぶんトンチキな話だとおもう。
あと(だんだんおもしろくなってきた)、

廊下を走らない、人の悪口を言わない、給食を残さないの三つの決まりに優先順位をつける授業

ちうのもようわからんな。
たとえば、「表現の自由プライバシー権に優先順位をつける」というのなら考えようがある。じっさいに優先順位を問われる場面を想定できるから。しかし、廊下を走るかどうかということと人の悪口を言うかどうかということと給食を残すかどうかということが具体的に衝突する場面となると、けっこう想像しにくい(廊下を走って教室に戻らなければ給食を食べる時間がなくなって残さざるをえなくなるみたいなメロス的な設定を考える?あるいは、その学校には大中小の三本の「根性注入棒」しかなく、三つのルールをそれぞれ破った三人の生徒に同時に根性を注入しなくてはならないときに誰にどの棒で注入するかを決める、とか?)。
ようわからんけど、課題の趣旨としては、それぞれのルールについてそれぞれ意味を考えさせる、そのきっかけとして、三つを比較させる、ということなんかもしれんとは思う。でも、そもそもあきらかに優先順位をつけようがないものを比較させる課題をやらせることに意味があるとしたら、やっぱり「法的なものの考え方」というのは本質的に不条理なのだ、ということを理解させる結果になるんじゃないのか。みたいな。