通勤電車で再読する『病いの哲学』。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)


ちょっと書き写しておこうかな。この人がこの本でなぜかT・パーソンズについて一章を当てているのはやはり異様だ。パーソンズがこの本では、「きわめて鋭い問い」「仮に冷酷であるとしてもそこを潜り抜けなければ希望を見出せない問い」を立てる人、として登場している。

パーソンズが指摘するもう一つは、これが重要だが、治療可能性と治療不可能性をめぐってのことである。医学知識の発展は、必ずしも直ちに治療可能性に結び付きはしない。むしろ、治療不可能性を明らかにすることも多い。ある病気の治療に使用された薬物の効果がないことが知られることは知識の進歩であるが、そのことは治療の不可能性が知られることでもある。
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「医師の治療の根本的な限界」「不確実性の非常に重要な領域」が、厳然として存在しているのである。パーソンズが見据えているのは、このクリティカルな地点である。治癒する場合においてさえも、いわゆる自然治癒力寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない。治療可能性と治療不可能性の境界、治療可能性内部における自然経過と治療効果の境界は、曖昧に入り組み、決定不可能なゾーンをなしている。このゾーンこそが、コミュニケーション・ギャップがそこから必ず発生するゾーンであり、マルセルのいう「不随意的なもの」、ナンシーのいう「体」、そして、他ならぬ病人の肉体である。
したがって、病人が社会的役割を引き受け、医療制度が社会的に機能するためには、この決定不可能なゾーンを社会的に処理しておかなければならないのである。・・・
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・・・したがって、医師と病人のコミュニケーション・ギャップとその隠蔽方式を見て取るためには、「今日の医療にみられる呪術の機能的等価物」を探り当てなければならない。医療制度に内在する宗教的なものを取り出さなければならない。そこにこそ、医療制度の社会的機能の秘密があると考えてみなければならない。・・・

ま、しかしこのへんは、読み返しながら時節柄、原発と科学者のことを思い浮かべた。「御用学者」に対する道徳的憤激などについて。「コミュニケーション・ギャップ」とか「患者の権利」ということばに、先日ここでひっかかって書いていた「メディアリテラシー」などということばを重ねたりしつつ。