『スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか』再読。神学と政治。

上野スピノザ本を再読するシリーズ第二弾。いちどめに読んだときよりもっとよかった。スピノザの『神学・政治論』の議論を当時のコンテクストに置いてていねい&簡潔に紹介している。
ところで、(スコラ的)神学と(デカルト主義)哲学との対立、という構図が、ちらりと、当時の大学内の神学とリベラルアーツとの抗争に重ねられていて、両者が現在の専門学部と教養部にあたるみたいな書き方がちらりとされていて、ふと思い立って著者の略歴をみたら、国際基督教大学の卒業生のようだ。そうそう、ここに書かれているような構図は、宗教系の大学では、なにげに平成の御世にも存在するかもしれないわけなのかもしれん。と同時に、思ったのは、それは神学と哲学との対立というか、神学というのがそもそも信仰と哲学の緊張関係をふくむわけだし、また哲学というのも倫理(っていうか道徳っていうか)と認識との緊張関係をふくむ、みたいに思えなくはないわけで、ついでにいうと信仰ってのも、常識的な道徳心みたいなものと、そこから切れた超越性みたいなものとの緊張関係を含んでるんじゃないかとも思えなくはないし、その常識的な道徳心みたいなものも、この本にあるようにスピノザ的ないみでの「群集の力」という風にみていくと、迷妄にちかいような方向性と、理性の狡知みたいな方向性とを含んでるようにも思えるわけで、そのへんをもやもやと思いつつ読んでいた。
それで、神学と政治の話が結びつくわけで、ふと気づくと今日は統一地方選の前半戦の投票日ということでもあった。震災の影響はあるのか、どういう結果がでるのかね?

スピノザによれば一般的に迷信は奇跡と反対に、統治がゆるみ、何ごとにつけうまくことが運ばず国家が危機に瀕するときに出てくる。人々はそういうときになるといろいろな事柄に吉兆や凶兆を見つけ出し、神々の怒りを鎮めようとあれこれ犠牲や請願を捧げるようになる。そんなことでうまくいくはずがないので、まだダメだと判明していない新しい迷信へと次から次に気移りしていく。支配の道具としては危なすぎるのである。

この結果として民衆は宗教の口実のもと、いとも容易に、いま彼らの王たちを神々のごとく崇拝していたかと思うと、たちまちに王たちを呪い、人類共通の災いとして嫌悪するよう駆られることになる。

迷信のこの浮動性は「幾多の騒擾、幾多の恐ろしい内乱の原因となってきた」。そしてこの弊害に対処するために、国家における宗教儀式の制度化に莫大な努力が傾けられてきたのだとスピノザは言う。

ふむ?