『デカルト=哲学のすすめ』再読。

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

何日かかけて通勤電車の行きかえりで再読。ずっとまえに読んだとき、なんか「このことをまっすぐに認めよう」みたいな言い回しがぐっと来たおぼえがあって、それがマイファースト小泉だった。

中世の誠実な神学や宗教が崩壊した後の、そして、近代の小賢しい道徳や社会科学が登場する前の、あの一瞬だけ青空が垣間見えた十七世紀に、デカルトはまっすぐに高貴な倫理を語った。だからこそデカルトは読み直すに値する。

デカルトが、「われ思うゆえにわれあり」なんつって、それはしかし独我論になっちゃうのでおかしいなんつって後代の近代哲学がいろいろと工夫をするわけだけれど、いわば独我論けっこう、そこから「私」のいわば単独性みたいのを正当に救い出して、国家だの社会だの政治だののレトリックにからめとられない世界における「私」の「自由」を追及するのが哲学のやくめ、そのためにデカルトを再読するぞ、デカルトはその課題を驚くほど先まで追及していたぞ、みたいな。

そうそう。
週末が研究室の合宿研修で、お天気に恵まれたしまずまず学生さんたちも楽しんでたようだし、それはよかった。のだけれど、ちょうど合宿中に思っていたのが「自由」ということで、つまり、自然の家なんかで研修をしていると、お隣の団体が小中学校だったりして、そうすると学校式に「気を付け!静かにしろ!」とか規律訓練している。施設そのものも、まぁ管理のためということは大きいのだろうけれど、けっこう団体の規律みたいなものがないといけないようになってて、とんでもない時間に集団で食事とか消灯就寝とか決まってたりする。うちは大学生の団体なのでそのへんはグダグダなのだけれど。そうするとそれはそれでその一方で、身内的な同調圧力みたいのがはたらいて、なかよくなるのは合宿の目的の一つではあるのだけれど、そういう共同体的なものはどっかで排除がはたらくってこともあるわけで、内輪的な妙なテンションで盛り上がるのにちょっとついてけないわ、ていう人間はとうぜん、でてくるわけだし、そりゃ大学生だからでてきてほしい、というところもあるわけで、そうすると、規律訓練的なものからも共同体的なものからも自由な「私」が生かされるような、しかもそれを合宿という枠組み(二日間の時間枠でいろいろ活動プログラムを組み立てられる)でできるようなやりかたというのは(論理的に?もふくめ)あり得るのか、とか。

以前、「ピクニカビリティ」ということばをここにクリップしたのを想起する(「ピクニカビリティ」の検索結果 - クリッピングとメモ)。

ピクニックとキャンプの違いをご存知だろうか。ピクニックは本来社交の場であり、ホストとゲストがない平等な集会である。だから煮炊きのような労働を誰かに課すようなことはしない。これに対してキャンプは軍隊の行動スタイルが基盤になっており、設営や炊事といった労働とその役割分担を通じて仲間意思[ママ]を共有しようとするものだ。拘束状況のアレンジメントを遊ぶタイプのレジャーである。