何年か前のNHK杯、謝依旻対溝上くんを見直していた。謝依旻やはりおもしろい。

居間のテレビが地デジ化してないので、夕食時になにか画面になんとなく映ってるといいということで、以前、DVDに録画していた囲碁対局を見直す。オチはわかってるんで、完全に勝勢だった溝上くんが痛恨のポカで即投了、ということだった。それがしかし、いかにも謝依旻的な勝ち方だったわけで、それを見直そうという趣向。
解説は王メイエン九段。いつもながらにわかりやすい、また、対局者を立てる、悪く言わない感じの解説で、でも、言ってることはよくわかる。「謝さんは布石ではあまりスケールの大きいことはやらないですね、所々をしっかり打ってそこから力を出す」というのはつまり、布石にさしたる構想がない、という意味。「うーん、私はこの図は選ばないですね、白の注文が見えていますからふつう避けるんですが、謝さんは堂々としてますね、白の注文に乗ってそれで打てると言ってるわけです、横綱相撲ですね」「謝さんは素直ですね、私なんかは不利になりそうな気がしたらそっちに行かないようにするんですが、真っ向から勝負するんですね、つまり読みが早くて正確で負けない、ということなんですがそれがいいところですが」「やはり棋風を変えるのは自分が変えたいと思うときに変えるんじゃないといけないですね」とか。要するにそういうことなんで、それは視聴者もみんなわかっていることなんである。ところで、そんなこんないっているうちに、謝依旻、妙なタイミングで強手を打つ。「うーん、ここで打ち込んでくるのはやはり謝さんでないと打てない手ですねえ」ぐらいは、しかしまだ余裕の解説で、終始半笑いで「溝上さんもその手は無理だと思ってるはずですねえ」などと言っているわけだけれど、そのうち「溝上さん、慎重に打っていますねえ」「あれ・・・溝上さんどうしてそんなにおびえてるんでしょうねえ・・・」っていう感じで、確かに調子は狂ってるようなのだった。それでもどうやら、解説を聞く限りはだいたいのところ終始、溝上くんが碁の流れをコントロールして想定の範囲内で打っていたようで、というのは解説者のメイエン九段が実は溝上くんの目線で見て想定の範囲内で推移していた、ということなのだろうけれど、メイエン流の、すなわち対局者を立てる解説では「これはもちろん対局者はここまで見えて打ってますから」と言っているけれどけっこう見てると怪しげなところもあったりして相当危なっかしいところもあったわけだけれど、ともあれ、中盤以降、妙に険しい攻め合いなどにもつれ込みながら、いちおう溝上くんがなんとか優位をキープしつつ、恐ろしくわけのわからない攻め合いからとんでもない振り代わりになって、それでも溝上くんが地合で勝ちそうというときに、さすがの謝依旻、振り代わりで取られていると誰もが思っている黒石を動き出して、いや、取られてるから、と誰もが思った瞬間に、つまり溝上くんがポカを打ってしまって死んでたはずの黒石が活きてしまったんである。
それで、メイエン九段、一局を振り返って曰く、終始溝上さんがコントロールしていたけれど最後にうっかりしてしまった、と。それはもちろんまったくその通りで、まともな解説なのだけれど、ただひとつ。勝ったのは謝依旻だということ。そして、謝依旻という人はいつもこんなふうにして勝つということ。ふつうに始まり、どこからかわけのわからない泥仕合になり、闇試合になって気がつくと勝っているのは謝依旻であるということ。溝上くんが最後の最後に決定的な一手ポカを打って勝ちをフイにした、というのは確かなことなのだけれど、もっと間抜けな手をさんざん打っていたはずの謝依旻がなぜ負けなかったのか。つまるところ、これが謝依旻という人の碁で、この碁はさいしょから謝依旻ペースだった、まともな溝上くんもまともな解説者メイエン九段も、謝依旻のまともじゃないペースに呑み込まれていたということのようなんである。