『ほんとにあった怖い話 第二夜』みた。あと『無法松』の追記。

黒沢清の本を読んでいたら見たくなって、amazonで注文してみたら届いた。まぁ言わんとするところはわかったっていうかんじかしら。
「怖い」を映画で表現することの理論化という作業が、Jホラーというジャンルを産んでいて、その出発点の一つ?がこの作品であるようだ。
そのへんの理論はこの作品の脚本も手がけている小中という人の名前を冠して「小中理論」と(そのへんの原理主義的な一群のひとたちのあいだで)呼ばれていて、それが『ホラー映画の魅力―ファンダメンタル・ホラー宣言』という本にもなっている。
映画はおそろしい

映画はおそろしい

で、なるほど実作を見てみると、言わんとするところはわかるけれど、同時に、あれ?理論的にやってはいけないと言ってたことをやってるけどいいのか?ということもやってるように見えるけどそれは気のせいか。
うろおぼえだけれど、たとえば、幽霊がある人の前に出ると。そのとき、たとえば幽霊を足のほうからずーっとパンアップして写していくと、幽霊っぽくなくなる=怖くなくなる。また、幽霊がある人の前に出てる状況を幽霊の後ろから、幽霊の肩越しに写してしまうと、これまた幽霊っぽくなくなる=怖くなくなる。みたいな法則って、あるんじゃなかったっけ。いずれも幽霊が妙に実体化されて映ってしまって、幽霊に出会う人の「主観と客観のあいだのところ」にぼやーっと出てくるという「イヤーな感じ」を破壊してしまう、みたいな。
でも、鶴田監督への黒沢清のインタビューの中で褒めてる、赤い服の幽霊の場面で、それ両方やってるよなあ、と。
いやまぁ、それはこの作品がまだ先駆的な開発途上のものだったということかもしれないし、あるいは、あるていど劇中の流れの中で雰囲気を組み立ててしまっているので最後の決定的なところでは掟破りこそが恐怖の限界を超えさせるのだということかもしれないけど。

あと、『無法松』世界のミフネ版、というのを、まぁちゃんと見るのではないがいちおう早回ししながらところどころ見た。長くなってて、それが蛇足だった。バンツマ版がやはりよかったわけで、あの太鼓を叩いていたら突然イメージ的なシーンになっていきなりすでに亡くなっているという衝撃のラスト。それを見た後でミフネ版を見ると、なんだそりゃ?というかんじ。なんで無法松が心理的に苦悩してるわけ?雪が降り積もる中をさまよって死ぬわけ?ロシアかよ?ミフネだけに?小倉ちゃうんかみたいな。あと、途中のクライマックスの運動会のシーン、バンツマだとバカで荒くれで無欲で一生懸命、という感じが出ていたのに、世界のミフネだと、最初余裕で手を抜いておいてほかの走者が疲れてきたあたりで追い上げて余裕で優勝、みたいに見えて、無心なかんじがぜんぜんみえなくて興ざめ。あと、スクリーンのサイズがシネスコというやつで、これが微妙だったのは、バカの無法松の顔がドカーンと画面を圧するみたいな印象が薄かったかなあというのと、あと、バンツマ版でもあった、画面の奥行きを使ってサイレント的なギャグをやるというのが、なんかうまく決まってなかった。