「教養科目に「学問の不確かさ」 3・11契機に、宇大」(下野新聞)て。科目のネーミングって大事なんやが。

ごくたまにちょっとニュースに反応。
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20120411/759996

教養科目に「学問の不確かさ」 3・11契機に、宇大
(4月12日 朝刊)
 東日本大震災東京電力福島第1原発事故の原因や対策をめぐり、専門家の間で見解の異なる主張が展開されたことなどを受け、宇都宮大は11日、「3・11と学問の不確かさ」をテーマにした教養科目をスタートした。国際関係から教育、工学、農林科学など全学部の教員がかかわる初の試みで、7月末まで計15回の講義を行う。宇大の全学生対象の基盤教育科目となり、大学コンソーシアムとちぎの登録科目として県内他大学の学生らも受講できるという。
 放射能の安全性などをめぐり「専門家」への信頼が揺らぐ中、「学問とは本質的に不確実であり、専門性など立場によって見解が異なることを学生に示し、主体的に判断する力を養ってもらいたい」と同大国際学部の清水奈名子准教授が企画した。
 宇大の全4学部それぞれの専門分野で震災関連の研究に携わり、問題意識を共有する教員計12人の協力を得て実現した。
 11日の第1回講義には学生約80人が出席。清水准教授は「教員の間にも不安や迷いがあり、論理的な根拠があれば批判も受けたい。不確かさに耐える力、知的な粘り強さを養ってもらいたい」と学生らに訴えた。
・・・

うーん・・・。
まぁやりたいことはわからんではないけれど、「学問とは本質的に不確実」「立場によって見解が異なる」「主体的に判断する力を養ってもらいたい」という言い方が、実際的に学生さんたちにどう解釈されるかを考えると、プラスかマイナスかは微妙、状況判断からすればマイナス、と感じるなあ・・・。
えーとたとえばつまり、「主体的に判断する力」の根拠はどうなるんですか、というはなしで、それはやはりあくまで真実を追求する態度から来ますよ、ということであるのなら、それはすなわちやっぱし「学問」、むしろそれこそ「学問の本質」ではないですか。また、「主体的に判断する」手がかりをどこに求めますか、というときに、科学的な知識を手掛かりにしますということでしたら、これまたやっぱり「学問」なわけです。そのあたりで、「(大文字の)学問なるもの」に対してある種、留保のない信頼感を根底に持っている人が、いわば逆説として、「(小文字の、現実的・個別具体的な)学問は不確実」と言ってみせる、というのは、ありだと思うし、まぁほんとは大学という空間や大学生という人たちは、定義上、「学問なるもの」に対する信頼を前提としているはずの存在であるはずなので、その限りでは、この講義のネーミングも、レトリックとしてはありえなくはないとは思う。
でも、状況判断というか現状認識として、いまの世間とか大学とか大学生とか「学問」をめぐる環境とかを見ると、そういう「(大文字の)学問なるもの」に対する留保のない信頼感が、まさに薄れているし、積極的に破壊されようとしている時期でもあるように思われる。そういうコンテクストで、こういうネーミングで講義をするのは、むしろ時流に安易に乗って反知性主義やら見かけ上威勢のいいアホな決断主義やらを元気づけることになるんじゃないかなあ、と思う。
ていうかむしろ、「学問とは本質的に不確実」「立場によって見解が異なる」「主体的に判断する力を養ってもらいたい」みたいな言い回しが流行っていることに対して、いや、にもかかわらず頼るべきは学問なんだ、だからこそ慎重にやらないといけないのだよと、どれだけバカみたいに愚直に啓蒙的な役割を演じることができるか、そんなこと大学生なんだからあたりまえの前提じゃないかという言葉をぐっと飲み込んでバカみたいに演じることができるか、というところに、いまの大学の先生の給料ぶんの値打ちがあるんだと、わたくしは思っていますよ。