電車で読む『イグアナの娘』『逃亡くそたわけ』。

電車で少し遠出の散歩。肩のこらなそうなものをかばんに入れて行って、電車の中で読んでいた。

イグアナの娘 (小学館文庫)

イグアナの娘 (小学館文庫)

親子(母子)関係、きょうだいのライバル関係と男性との性的/ジェンダー的な関係を登場させて、女性としての「私って何」みたいな問いをめぐって描いてある。ま、そういう問いの立て方が、時代を感じると言えばいえるかも。同じ問いが今もあり得るだろうけれど、今もそういう問いの立て方で作品を作って現代的な作品になってるっていうのはあるのかなあ。
逃亡くそたわけ (講談社文庫)

逃亡くそたわけ (講談社文庫)

一見アホそうで?でも頭のよさそうな小説。精神病院から逃げ出した若い男女患者の逃避行・ロードムービー風。幻聴もちの女子が主役。で、その幻聴が、「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」という声が頭の中で繰り返すのだそうだけど、この出典がマルクスなんである。で、この著者はわたくしと同世代で、わたくしと同世代の人はじつはこのマルクスの『資本論』だったかからのフレーズは、よく目にした。マルクスを読んだというより、「ニューアカ」の文献の中で、マルクスの価値形態論がなんかっちゅうと参照されたわけで、読んでる人は、だから、マルクスというと価値形態論、という、妙にいびつなマルクス理解でこのフレーズだけ聞き覚えた、という面もある。文庫版の解説の渡部直巳は、この価値形態論のフレーズを作品の構造と、当然、結びつけて読解をしようとしてるのだけれど、ま、そこまでこの著者が深々と考えてやってるかは不明。ただ、唐突で詩的?なイメージとして、「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」というフレーズの繰り返しは、悪くない。で、主人公女子と相方の男子は、精神病院や精神病や向精神薬に関する専門的な言葉をべらべらと喋る。しかも主人公女子は博多弁?、男子は標準語で喋るけれど、それは当人のアイデンティティと深く結びついていて、主人公女子は九州地元一番と思ってるタイプだし、博多の精神病院を抜け出してから車で九州を縦断する逃避行の間、九州の地元の人間しかわからないような地名なり物産名なり道路の名前なりが断りなくどんどん出てくる。いっぽう男子のほうはといえば、東京人だと自分をアイデンティファイしたいけど実は名古屋出身、という。なので、博多弁やら標準語やら九州ローカル地名物産名やら精神医学専門用語やらマルクス由来の幻聴やらが何の挨拶もなく混在して、なにげに多言語的な小説なのだ、でもってその多言語性こそがこの小説の売りである、「性やジェンダーの問題」はもはや大した問題ではないし、「アイデンティティ問題」も多言語問題としてこそ扱われる(最後に「言葉」が叫ばれる)のだ − と言わんばかりの要するに頭のよさそうな現代的っぽい小説。