小泉義之『ドゥルーズと狂気』。いつもながらによい。「愚鈍」と訳さず遠慮なく獣人すなわち生来性犯罪者のことだと解する、そういうドゥルーズ読み。

某日、めざましテレビの占いの指示により、引きこもりに鞭打ってなんとか電車に乗り、少し遠出の散歩。それで書店に入って棚を見ていたら、この本が出てたのだと思い出して購入。結果よい散歩となった。それで帰りの電車で読み、また通勤電車で読み、寝る前と寝起きに読んで、なんやかんやで読了。
蓮實重彦の紹介でドゥルーズを読むと、「愚鈍」というキーワードが出てきて、その原語が動物、といった意味合いだというところぐらいまでは紹介してあって、ふむふむと納得しているわけだけれど、それとは別途、ドゥルーズがゾラの「獣人」について論じていて、まぁそれもへぇそうなんだあ、というていどに思っていて、『獣人』というとルノワールで見たなあ、殺人者のおはなしで、ゾラなわけなので遺伝性にそう運命づけられてるみたいなことだったかなぁ、おかしなことであるよ、という程度に思っていたわけだけれど、じつはそこんところのお話。「愚鈍」をキーワードにしながらドゥルーズが見ているのはまさにそういう「生来性犯罪者」であると。ドゥルーズ(とガタリ)がたとえば『アンチ・オイディプス』で、反精神医学みたいなことを言ってるように見えて、なんか精神分裂病を解放して社会に革命を〜みたいなことなのかなぐらいに思っていたら、そんななまやさしいことではないぞと。だいたいからして、精神医学は一方で「自傷他害のおそれがある者」に関わってきたはずなわけで、ところがいわばそれを触法精神障害者として「司法・警察・司法精神医学に丸投げ」することで役割分担してたという面があるじゃないか、みたいに指摘しつつ、ドゥルーズが見てたのはそのいちばんヤバいところの「狂気」であって、それは初期の著作から一貫してたわけで、そこから進化する100万年後の新たな人類にドゥルーズは期待してるんだ、もちろんそれはトンデモであって、そのトンデモのドゥルーズの思考をこそ読もう、という。