以前に買ってたものを、ふとひっぱり出して読み始め、意外に読みやすかったので途中から通勤電車で読んで読了。この本のミソは、「政治的
ドゥルーズ」をどう評価するかみたいな出発点から、それを
ドゥルーズ=ガタリの著作をどう評価するか(
ドゥルーズ=ガタリの著作は
ドゥルーズ思想の政治的展開であって
ガタリはおまけなのか、あるいは政治的なのはあくまで
ガタリであって「政治的
ドゥルーズ」など実は存在しない、というのか、等々)というふうに考えてみて、それでひとまずそもそも
ドゥルーズの思想がいつも
哲学史をつうじて、ヒュームや
ベルグソンやなんやかんやの読み直しとして表現されてたことを「自由間接話法」的な方法と要約した上で、それがつまり
ドゥルーズのヒューム読解は
ドゥルーズ思想の開陳でヒュームはおまけなのか、あるいは重要なのはあくまでヒュームであって
ドゥルーズ思想などは実は存在しないのか、といった問いをしりぞけつつ、自由間接話法的な読みじたいがヒューム=
ドゥルーズの思想であるのだ、というふうにもってきて、じゃあ
ドゥルーズ=ガタリもおなじことで、
ガタリが書きまくったメモを
ドゥルーズが「読ん」で
ドゥルーズが作文したという『アンチ・
オイディプス』なんかはまさに、
ドゥルーズの「自由間接話法」的な方法によって実現した
ドゥルーズ=ガタリの思想、なのだよ、と。それはしかしやはり
ドゥルーズが単独で過去の
哲学史と向き合いながら語った思想とは違って、
ドゥルーズが単独では気づくことしかできなくて突破することができないでいた限界を、
ガタリとの共同作業によって突破しているよ、と。それはたとえばのはなし、
フーコーが権力分析をやりながら行き詰っていった同じ問題を、欲望の分析によって突破するようすにみられるよと。なんかそんなおはなし。まぁしかし、そんなもんかいなと思いつつ読んでいたらさいごらへんは妙に図式的っていうか、自由についてみたいなはなしになったら妙にふつうのオチに到着していてほんまかいなとも思った。