通勤電車で読む『はい、泳げません』。笑えるノンフィクション界の、〈狂気〉にかんする人類学的探求から〈生きられた身体〉の現象学へ。

はい、泳げません

はい、泳げません

この著者のものをいくつか読んで、パターンがなんとなく見えてきた。「ラジオ体操」でも「開成高校野球部」でも「トラウマのカウンセリング」でも「ダイエット」でも、とにかくある種のマイナーな領域の人たちを取材して、その「論理」を描き出す。その人たちは何しろ変わったことをやっているわけだから、〈私たちの常識〉からすればおかしな論理であるように思われそうなのだけれど、よくよく取材をしてみれば、彼らの「論理」はそれなりに首尾一貫していて、むしろ〈私たちの常識〉よりも論理的であるような首尾一貫した論理性を有している。そしてその首尾一貫した論理性ゆえに、彼らの「論理」は〈私たちの常識〉が共有している(と信じている)〈現実〉から遊離していくし、そのように〈現実〉から遊離していくゆえの、彼らなりの「論理的な」つじつまあわせが、これまたそれなりに首尾一貫しつつ〈私たちの常識〉から見れば非現実的で滑稽でもある、というぐあい。で、そういう、〈私たちの常識〉からは異質であるような「論理」というのを、〈私たちの常識〉が〈狂気〉と呼ぶのだとしたら、この著者が繰り返し書いているのは、笑えるノンフィクションという形をとった、あれこれの〈狂気〉にかんする人類学的探求のようなものだ、ということもできなくもない。でもって、いうまでもなくそのばあい、この著者の人じしんが、ミイラ取りがミイラであるようなやりかたで、あるいは人類学者が野生の思考の語り手であるようなやり方で、〈狂気〉の語り手であって、だからこの著者のものに登場する変わった人たちはみな同じように見えるし、それはつまり著者その人に似ているんじゃないのということにもなり、エスノグラフィーの登場人物はエスノグラファー本人に似るというわたくしの説がここでもやっぱり確認されることにもなると思うのだけれど、
そしてしかし、この本には、ちょっと違うアプローチが見えなくもない。
この本で著者の人は、泳げない、水が怖い、というところから出発して、スイミングスクールに泳ぎを習いに行ってそれをノンフィクションで描こう、としている。そうすると、ここで取材されているのは、スイミングのコーチの側というより、泳げない著者じしんであると。だいたい誰でもそれなりに泳げるわけで、スイミングのコーチだって泳げる側の人で、それはマジョリティの側であるよと。泳げない著者のほうがマイナーであり、水の中で手足を”自然に”動かすことができずにあれこれ理屈を考えては混乱してしまう著者のほうこそ〈狂気〉の側にある。でもって、その著者が泳ぎを会得して〈私たちの常識〉を身に付けていく(コーチのアドバイスやあれこれの「言葉」を理解して実践できるようになる)プロセスを描いていくのだから、ここでは〈狂気〉にかんする人類学的探求ではなくて、いってみれば〈生きられた身体〉の現象学、のようなことが描かれている、ようにもみえなくもない。それがうまくいっているかとか、ふだんの著者の書いたものよりおもしろいのかとかいうと、よくわからないけれど。