通勤電車で読む『仙人と妄想デートする』。前著よりもっと内容主義的だなあ。あと、プラットフォーム云々という議論は校則のはなしを思い出した。

このまえの『摘便とお花見』(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20160623#p1)の人の本。おなじような、看護のインタビューを基にした「看護の現象学」の本なのだけれど、けっこう印象が違った。前の本もちょっとそうだったけれど、より内容主義的。内容主義ということばはたぶん私が勝手に言っているニュアンスなのでググってもでてこないと思うけれど、ようするに、インタビューの「語り」の言葉の言語形式を分析するんじゃなくて、そこで語られているエピソードの内容でどうこう言う、ということ。前著はまだ、言語形式の分析という感触があったけれど、本書はほとんどエピソードの内容だけで勝負してる。で、前著よりも、図式の提起(プラットフォームがどうのこうの、というやつ)を積極的にやっていて、あと、前著よりもいっそう「死」に焦点をあてている。
病院なり何なりというのは形式的・制度的な規則があって自由じゃない、だけど看護師というのは実践の中で、規則そのままではないやりかた(もうひとつの「制度」)をつくりあげて、いわば形式的規則とのズレのなかに「自由」を作り出すのだ、という。そのへんは、なんか昔、校則についてそのへんに関する論文を書いたようなことを思い出した。学校には校則というのがあるけれど、生徒は校則の曖昧さの中に自由を見出すよ、とか、教師もまた校則そのままじゃなくて曖昧な運用をすることで教育性を見出すよ、とか、だから学校の中では生徒と教師がともに校則を曖昧に運用することで学校的リアリティを作っているよね、共犯的だよね、とか。まぁだからそういういいかたをすると、これぞ看護のプラットフォーム、これぞ自由、というふうに一方的に顕揚するのはちょっとどうかなっていうことにもなると思って、それはふたたび学校の話に戻すと、不良の生徒にこそ人間味があるとか、規則を守らない熱血教師こそが真に教育的だとか、そういうふうに形式的規則とのズレの中に教育的価値を見出すはなしにもなって、まぁそれは単純なロマン主義で、まぁそこから体罰教師を正当化するとか、「昔のいじめはガキ大将がやっていたからよいいじめだった」みたいな俗言とか、学校の授業で勉強する知識なんて社会の役に立たないんだから学校外で経験をすることこそがすばらしいみたいな結局のところ学校教育そのものの意味を否定するような理屈とか、まぁそれはそれでゆがんだ教育言説がぞろぞろ出てきたりもするので要注意としたものなわけだけれど、まぁそれはそれとしても、じゃあ、本書で提起されている図式というのは看護というのをどう見るのか。タイトルになっているのは、精神科の在宅支援のナースが、精神疾患をもつ老患者の自宅にケアに行って、エロいかんじに口説かれたりしながら、まぁでも相手はおじいちゃんだし仙人みたいなもんだということで、デートにリアルに付き合うんだかあくまで妄想デートということなんだかはよく読み取れないにせよ、まぁようするに人対人の関係で接するよという。まぁそのへん、ほかの登場する看護師さんにしてもだいたいそうなのだけれど、そうやって形式的規則からズレたところで患者と接する、というところを、プラットフォームとか自由とかいう言葉で表現している。うーん?それはいいのか?
前著で、しきりに「感情労働」ということばを否定する看護師さんが登場して、それはいわゆる「感情労働論」の文脈からは微妙にずれていたのだけれど、しかし本書で焦点化されてるようなエピソードはもろに感情労働論でしんどい例といわれるようなものばかりじゃないだろうかしらとも思えて、あるいはたとえば阿部真大『搾取される若者たち』(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20061115#p1)『働きすぎる若者たち』(http://d.hatena.ne.jp/k-i-t/20070703#p1)に登場するバイク便ライダーやケアワーカーと同じロジックじゃないかとも思えて、ちょっとそれはきびしいんじゃないかと思った(もちろん、バイク便ライダーやケアワーカーは不安定雇用で低賃金で使いつぶされて、というところが議論の眼目のひとつなので、そのへんは看護師とはいまのところ違うのだけれど、でも本書ではそういう雇用とか専門性にかんする制度的な位置づけみたいなことが視野に入ってなくて、ナースは規則からズレたところで患者さんと接する、というところがもっぱら焦点化されてる)。
あと、「娘が作ったエビフライを食べて死ぬ」というタイトルの章があって、ターミナルの在宅の看護のはなしで、まぁ、家族と協力体制をつくりながら(病院みたいな形式的規則ガチガチでないやりかたで)看取るよ、というはなしなのだけれど、あるとき、さいごになって患者さんが急に元気なかんじになってエビフライが食べたいということで、娘さんがエビフライを作ったらおいしそうに食べて、それで数時間後になくなりましたと。それで、病院では規則だから当然ダメなのだけれどターミナルで在宅のばあい、そういうやりかたで患者さんと家族にとってなにがベストかということで看護をするよ、それがプラットフォームで自由を作るってことだよ、ということなのだろうと思うし、それはまぁそうだろうと思う。で、それはそうとして、これがエビフライだったからちょうどいいはなしのような気もして、これが海老しんじょのお吸い物だったら話としては感銘が薄いような気もするし、トンカツだったらトゥーマッチな感じがしてそれはいくらなんでもいかがなものかという気もしてきそうで、なにがいいたいかというと、エピソードの内容に依存する度合いが大きいんじゃないか、内容主義じゃないか、というのはそういうところ。