通勤電車で読んでた『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』。いまいちだった。

某日、重い重い腰を上げて這うように散歩にでかけて、駅のところの大型書店で何冊か購入したうちの一冊。古市くんという人が、有名な社会学者に「社会学とは何ですか?」と聞いて歩く、という『小説宝石』という雑誌の連載がもとになっているらしく、前書きのところで、社会学の入門書として最高の一冊、とか書いていて、なるほど有名な社会学者の名前が並んでいるのでそうなのかと思って買って読んでみた。まぁしかしいまいちだった。まぁ、有名な社会学者でも特異な理論家でも、たとえば勤務している大学の1年生向けの社会学概論の授業でも担当したとしたら、初回には通り一遍のことを喋るだろうし、なんかその古市くんという人がのこのこやってきて「社会学とは何ですか?」と聞かれたとしたってさほど鬼面人を驚かすようなことは喋らないだろう。定型的な入り口から入って、浅い世間話をして、なんか「古市くん」という人のキャラクター性についてみたいな話題(読者はべつに関心ない)になってあっさり終わる。みたいな章が並んでいて、なんかせっかく有名な社会学者の人が並んでるのに、不思議に手ごたえ感がないのだった。

あーだから、「古市くん」という人のキャラクター性についてみたいな話題に、読者はべつに関心ない、というのがもしかしたら間違っていて、(雑誌連載のときはともかく新書になったときの)この本のターゲットの読者は古市くんという人に自己同一化していて、古市くんが褒められれば自分が偉くなった気がする、古市くんこそ本当の社会学者だと言われれば自分も本当の社会学者であるような気がする、大学でつまらない講義なんかしてる(有名ではない)社会学の教授なんかはつまらない存在で、ツイッターで華々しくスキャンダラスな社会的発言をしている古市くん=自分こそがすばらしい、という気持ちになれるといういみで、そここそが重要なのかもしれない、と、ちょっと思いついた。