通勤電車で読む『表象』11号。去年見に行ったシンポジウムを受けた特集。

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

ま、特集もだけど、とりあえず巻頭言の「表象からのこの不気味な撤退は何を意味しているのだろう?」(佐藤良明)がまずおもしろかった。話題はトランプ大統領で、就任式で夫人と「My Way」を踊ったと。で、歌詞の「I did it my way」の部分でカメラのほうに顔を向けて口パクをした、と。

で、そもそもこの曲は、語り手が人生の終わりに自分の人生を振り返って、いろいろあったけど私は自分の道を歩んで生きたのだ(http://lyrics-jp.blogspot.jp/2014/02/frank-sinatra-my-way.html)、という、まぁ、一言で言うと、およそこれから大統領に就任しようという人がセレモニーで流す曲には全くふさわしくないよ、トンチンカンだよ、という。アメリカの大統領ともあろう者の就任式では、いままで、それぞれにふさわしい曲を選び流してきたわけで、それがこのたびはこうである、と。そしてしかし、なんとも薄気味悪いのはトランプの口パクであって、彼はこの曲の歴史文化的コンテクストどころか誰が聴いてもふつうはわかりそうな歌詞そのものの世界すら平然と無視して、この曲をただ「I did it my way」という、子どもでも分かるたった5つの単語の並びにしてしまったのである、と。で、筆者の人はそれを「表象からの不気味な撤退」と評するわけである。教養がないとか読解力がないとかなんとかいうのとは次元が違って、そもそも「表象」というものから撤退している、という見立ては面白いし不気味なかんじがする。
でまぁ、特集のほうにかんしては、座談会が「共同討議:「精神分析的人間の後で──脚立的超越性とイディオたちの革命」」(千葉雅也+松本卓也小泉義之+柵荑宏平)となっていて、哲学2人と精神分析2人で話し合っている。そうすると、シンポの予告(http://www.repre.org/conventions/11/)を見た時からずっと、シンポを見ながらも不思議に思っていた、「なぜここに細馬先生や牧野さんといった社会学の人たち(細馬先生の相互行為研究もおおまかに社会学と言うとして)が加わっているのだろう」という疑問 − それはきっとシンポを見れば明らかにされるだろうと思っていたけれどさほど明らかにはされなかったわけだけれど − が結局、よくわかんないことになってて、やっぱり最初から哲学の人と精神分析の人だけでやってたらすっきりしたんじゃないか、というふうに見えなくはない。まぁもちろん、想像だけでならあらかた見当がつくような理由、たとえば社会学の人たちには「ポスト精神分析的な社会や人間の実態」を示してもらうつもりだった、的なことはありそうとは思うけれど、細馬先生や牧野さんは特にそういう立ち位置でふだん研究をしておられるわけでもたぶんないし、なんかシンポのなかでコメンテーターの小泉氏のコメント(配布資料もなかったしよく聞き取れなかった)でもたぶんいまひとつ無理やり感のある位置づけで総括しておられたような気がする。ある意味、小泉コメントでどのような鮮やかな位置づけがされるのかを期待して見にいっていたので、そのへんはまぁ、もうひとつだったともいえなくもないけれど、そもそもやはり普通に考えて期待するほうが無茶と思うのでさほどの文句はない。

そういえば、たしか、細馬報告に対する小泉コメントは、なんか研究方法論的なところに注目していたような気がして、細馬的な微細な行動解析は「ポスト精神分析的な社会」におけるテクノクラート的な視線に重なるんじゃないか的な、まぁ言いがかりといえば言いがかりなコメントだったように覚えてるんやが(よく聞き取れずしかも一年も前のことなのでまちがってるかもしれないけど)、まぁそういう位置づけそのものは、話のつじつまとしては合っている気がする、ただし相互行為分析の人にそういうことを言っても困惑するばかりで、相互行為分析はこういう研究方法論で昔からやってきたしポスト精神分析社会だろうがなんだろうが同様のやりかたで淡々と解析していくはずだ、と応ずるよりなかろうとは思う(し、その場でもたしか双方で苦笑い的な感じだったと思う)。ただ、話のつじつまとして合っているということについて、じゃっかん補足すると、なんか自分が昔、同じような構図でエスノメソドロジーに言及した論文を書いたことがありまして、それがなぜかさる方の目に止まったようで、ブログで取り上げていただいたうえでやはり困惑というか、されていた覚えがあるのだった。まぁ、大きなシンポで発表された小泉コメントに自分のちんけな旧悪を比べるのも思い上がりのようなかんじなのだけれど、まぁそれはそれとして、しかし、自分的に多少の思い入れがあった(ある)とすれば、そのときに自分が書いた論文では、「ウィリスの「野郎ども」についての議論は産業社会的で弁証法的で「対抗文化」や「対抗文化論」として成立するが、それと似ているように見えるサックスの「ホットロッダー」をめぐる自己執行カテゴリーの議論は、消費社会・メディア社会に適合するもので、そこでは「対抗」とか「革命」とかいう弁証法的契機そのものが蒸発してるじゃんねえ」みたいなお話で、まぁだから、自分が理解して覚えてる範囲での小泉コメント「相互行為分析はポスト精神分析的な社会におけるテクノクラート的視線に重なるんじゃないか」と、同型だと思うのだけれど、ただ、自分がその論文を書いたときにはたぶんまだ自分の周り(教育社会学会なんかでエスノメソドロジーに興味を持ったりするような人たち)には、サックスの「自己執行カテゴリー」論を、抵抗とか対抗とか革命とか自律とかそういうことを言いたいために参照するような雰囲気が感じられて(くだんのブログの方も、「ハーヴェイ・サックスの「ホットロッダー」論文を「対抗文化」論として読むということは、例えば山田富秋&好井裕明『排除と差別のエスノメソドロジー』辺りからエスノメソドロジーに入門した人にとっては十分に納得のいくことだろう」と書いておられる)、なので、まぁそういう文脈の中でということであれば、多少のそれこそ批判的?いみあいもあるんじゃないかと期待して書いてたところはある(まぁじっさいにはべつに誰も評価してくれなかったけれど)。そのへんは、このシンポジウムみたいな、会場みんなが基本的に「ポスト精神分析社会」なるものについてそれなりに文脈を共有している、みたいなところで言うのとでは同じ構図でもちょっとニュアンスが変わってくるんじゃないかなあとは思う。