通勤電車で読む『日本人と日系人の物語 会話分析・ナラティヴ・語られた歴史』。会話分析が「日系人」の研究になっていくのか問題。

日本人と日系人の物語―会話分析・ナラティヴ・語られた歴史

日本人と日系人の物語―会話分析・ナラティヴ・語られた歴史

以前みつけて、おや?こんなところで会話分析が、ということで買ってたのを通勤電車で。なんか、意外にも、会話分析の博物館研究から発展して − つまり、日系人研究に会話分析が付き合ったのでなく − この共同研究、この本が成立したらしい。まぁなんとなく、なぜ会話分析がこのテーマに?と思いそうなテーマじゃないかと思ったら違ったという。それでまぁ、読んでみて、じゃあ、共同研究の成果やいかに、ということになるわけですが、まぁ最初のほうの章はふつうに日系人の歴史とはそもなんぞやというふつうのおはなし(ちなみに、おもしろそうな記述にふと注を見たら、勤務校の知ってる先生のご研究が参照されてた。あの先生はこんなことしてはったのかと)。まぁそれから、語りだとかナラティブとか、物語だとかもの語りだとか、やまだようこ先生のお書きになった章とか、が続いて、そのあとに、さいごに、会話分析の章が続く。データは、日系人ミュージアムの展示を見たりガイド付きツアーで街歩きしたりしたときの、ガイドと参加者のやりとりで、読みながらやはり気になるところは、会話分析の研究が「日系人」の研究になるのか、というところ。たとえば博物館の展示を前にしたガイドと鑑賞者とのやりとりを分析して、会話分析的な何かが見いだされるとして、それがたとえば「日系人」にかかわる展示を見たときのやりとりでも例えば中国系アメリカ人にかかわる展示とか、例えばふつうの彫刻や絵画とかたとえば自然科学系の展示とか、工業製品の展示とかまぁなんでもいいですが、そういうのを見た時のやりとりと、まぁ会話の仕組みとして同じものが見いだされるんであれば、それはやっぱし「日系人」の研究とは言いにくかろうと。いつも思うように、「いじめの会話分析」を読んだら「「いじめ」についてわかったなあ」と思いたいし、「日系人の物語の会話分析」を読んだら、やはり「「日系人の物語」についてわかったなあ」と思いたいところである(「博物館や街歩きのガイドさんの喋り方がよくわかったなあ」だと物足りない気がする)。で、どうだったかと。でもあれです、思ったより「日系人」の研究なかんじを感じた。250頁ぐらいまでは、ちょっと心配しながら読んでたふしもあったけれど、13章のオチのカテゴリーの出し入れのあたりぐらいから、ふたつのテーマセッションとか14章とか、やはり彫刻でも絵画でも工業製品でもなく、(ばあいによっては)たとえば中国系アメリカ人の物語とも置き替えることのできないような、まぁ「日系人の物語」の会話分析ならでは、かな?と思いつつ読了。