『家族はなぜ介護してしまうのか』読んだ。おもしろかった。概念分析するぞと。

家族はなぜ介護してしまうのか―認知症の社会学

家族はなぜ介護してしまうのか―認知症の社会学

家族はなぜ介護してしまうのか、と問われれば、そりゃ家族だからでしょう、と思ってしまいそうなのだけれど、認知症にかんしては2000年代以降に「新しい認知症ケア」の考え方が急速に広まったのだそうで、認知症患者さんの「その人らしさ」を尊重して軸とするようなケアが重視されはじめたということで、その新しい考え方のなかで、介護者は固有の思考や振る舞いや囚われ方や悩み方をするようになったのである、それで、「介護の社会化」が推し進められ医療化や福祉化や専門職化が進行しつつある一方で、「その人らしさ」をめぐるいちばん重要な位置に家族が置かれることになり(その人の日常をいちばん見ている、その人の人生をいちばん知っているのは「家族」である、等々)、「その人らしさ」を尊重するケア、という - 正解のないような - 活動に、家族は際限なく巻き込まれていくよ、というようなすじがきのようである。そこで、そのありようを解明するには、「認知症」の概念分析が必要なのである、という。で、なるほどエスノメソドロジーしている。おもしろかった。
ひとつ、「文化的な判断力喪失者"cultural dope"」という語をひとつのキーワードとして使っているところが、まぁ自分的にちょっと気になった。
まえに自分の論文で少し書いたことだけれど、"judgemental dope"に「判断力喪失者」という訳語は良くないと思っている。喪失、というと、本来は持っている、という含みが出てきてしまい、疎外論的にいわば「判断力なるもの」を神秘化・特権化してしまうのでは、と。でも"dope"に喪失という含みはなくてもいいのでは、というかんじで。社会学者が成員を“dope”と見做してしまう、というとき、その成員は「規範に自動的に従う」ものとされている。それはそれでいいとして、でもその成員の人はけっきょく、規範に従ってAならA、BならBと「判断」して行動してる。とすれば彼が「判断力を喪失している」というその「判断力」とは何なのか、よくわからなくなってこないか。このひっかかりは、“dope”をそのまま「中毒者」と訳していれば、そんな「人間本来の判断力」みたいな含みはでてこないわけで、それを「判断力喪失者」と訳することで、不必要な疎外論的な含みが出てくるし、そこに引っ張られて疎外論的な議論を展開したくなる論者が出てくる、みたいなことでは、と思っている。
で、この本は、患者さんの家族が、たんに認知症をめぐる知識とか規範にしばられているんではなくて、みなさんけっこう意識高く自分で勉強して反省していろいろやっているよ、という文脈で、「文化的な判断力喪失者」ではないよ、というキーワードが出てくるように思う。そして、だからこそ、際限なく巻き込まれて「介護してしまう」のだ - という文脈で、タイトルの問いにつながるのだとすると、なんとなく、訳語の問題としての神秘化・特権化された「判断力」というのと、上野の指摘を引いて著者の人が注目する、概念上の「介護家族の「ケア責任」」という、介護の社会化やアウトソーシングを最大限やっても最後まで残るもの - そのために家族は巻き込まれていくというしかけ - というのが、重なって見えなくもない。それで、あらためて、家族はなぜ介護してしまうのか、と問われて、そりゃ家族だからでしょう、と思ってしまいそうだけれどそうではないのだ、それだけではすまないことなのだ、概念分析とエスノメソドロジーによってそれを明らかにできるのだ、という本書のミソの部分が、なにか神秘的な「判断/責任」というキーワードの効果なのじゃないかなあ、というもやもやしたひっかかりがなくもないけどそれは気のせいなのかな。