つんどく状態になってる
ウディ・アレンを見ていくシリーズ。これは
ウディ・アレンが出ていないけれど
ウディ・アレン感が満載というか、
ウディ・アレンで見たよねというのを手数多く打ち出している。例のごとき黒地に白文字のタイトルバックが終わると、NYのカフェでおっさんたちがなにかくだらない話をしている、というのがすでに既視感で、そしてそのうちの1人がちょっと偽
ウディ・アレンというかんじで、それがいきなりカメラ目線でスクリーンのこちらに話しかけたりする。で、その偽
ウディ・アレンというのが負け犬インテリの偏屈で
神経症で皮肉っぽい理屈ばかり始終喋っているおっさんというかじいさんっていうかだからようするにウディ・アレンの主人公で出てくるタイプ、だからようするに偽ウディ・アレン。でまぁひょんなことから若くて美人でスタイルが良くて頭が弱くてお人好しで不遇な家出娘が転がり込んできて、まぁどうのこうのあって、ほろ苦いというかペーソスの滲むエンディングに。というかこれだけ毎度同じパターンの都合のいい女子を登場させて都合のいいはなしを飽きもせず繰り返して、どんだけきもちわるい夢見がちの負け犬インテリおっさんの願望まるだしなのかと。またそれを見てまんぞくしている自分も自分であることはいうまでもない。これで主人公を
ウディ・アレンがやってたらいうことなかった。ウディ・アレンがやっていたらたぶんもうすこし主人公が貧弱で気弱な感じになって、尊大でいやなじじいという感じが減って、よりいつものウディ・アレンになっただろうから、本作の本作らしいごくわずかな点も薄れてしまうだろうけれど、ウディ・アレンを見るというのは毎度おなじみの
自己憐憫をまんぞくさせるようなことなので新機軸など求めていないというのもある。ていうかそもそも論としてウディ・アレンを見るというのは、主人公のウディ・アレンに自分を重ね合わせて、ひょんなことから若くて美人でスタイルがよくて頭が弱くてお人好しで不遇な家出娘みたいなタイプの女子に好かれたような気になってみたり、まぁ少なくともそういう事態も理論的には可能性がゼロではないはずだ等々思ってみたり、でも何しろ自分は皮肉屋のインテリなのでそれが夢であることは百も承知なのでエンディングには皮肉でペーソスのまじった結末が用意されているのもわかっている、みたいなことなので、だからあれです、主人公のタイプが変わってしまうというのは毎度おなじみの観客からは、そこを変えたら自分が重ねあわせにくいじゃないかという意味において都合が悪いってのもある。