『野の医者は笑う』読んだ。『居るのはつらいよ』の著者・臨床心理士による沖縄スピリチュアルヒーラーの医療人類学というか。

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

以前、『居るのはつらいよ』というのが面白かったので、同じ著者の本を。
『居るのはつらいよ』読んだ。はずれなしでおなじみ「シリーズ ケアをひらく」の一冊。 - クリッピングとメモ
で、この本は、著者の人が沖縄で『居るのはつらいよ』なデイケア施設をうっかり退職し、就職浪人しながら、トヨタの財団の研究助成をもらって沖縄のスピリチュアルなヒーラーにどんどん会って、話を聞いたり、ていうかつぎからつぎへとヒーリングだとかセラピーだとかをしてもらったりオイルや水やパワーストーンを買ったり気を送ってもらったり、セミナーに通ってヒーラーの資格を取得したりしながら実地に調べた、まぁ医療人類学、というもの。で、さいしょに「やぶ医者」というのが「野巫(やぶ)」つまり在野の、呪術や民間治療のたぐいをやる者のことだった、みたいな語源話なんかもまじえながら、じぶんは臨床心理学で博士号を取ったもののそもそも臨床心理学とヒーリングや宗教とにどのような違いがあるものなのか、みたいなことでまぁ研究助成もめでたくとれてあれこれしらべて、まぁやはり文章がおもしろいのでおもしろく読めて、そして沖縄のあるセラピーの系統を辿ったらそこに驚愕の事実が!みたいなこともあり(まぁ二番目ぐらいに面白かったのは、本土から沖縄にやってきてたくさんのヒーラーの師匠となった超大物が、もともと教師をしながら生長の家で教化部長で活躍してた人で、本土復帰にあわせて沖縄政財界の引きで、子どもの教育の専門家として沖縄に来て、資金提供も受けて、「応用心理学協会」というのを設立して保育園も併設した、とか、そのからみで生長の家というのが日本にフロイトユングを紹介していたとか、フロイト著作集でおなじみの日本教文社がもともと生長の家出版部だったとか、まぁしかし生長の家の思想的背景にはまた「ニューソート」というキリスト教系異端の、ポジティブシンキングというのがあって、まぁそのへんが混然一体となって、スピリチュアリズムの中に入り込んでいる、みたいなはなしとか)、まぁおもしろかった。まぁ、『居るのはつらいよ』のほうがより直接的に著者の人の沖縄デイズの時間が止まったような日常をちょっと感傷的に書いてて、よかったのだけれど、まぁこっちの本もおもしろかったということで。でまぁ、どっちの本も結論そのものは、まぁそんなふうなところだろうなぁとは思うんで(ついでにいうといくつかの、たとえば「宗教」という言葉とかの使い方が雑だなあと思わなくはないのだけれど)、まぁしかしそこにいたるまでの右往左往がおもしろいってことで。

あと、↑くだんの「潜在意識」というキーワードの系譜学のはなしなどを見ていてなんとなく思ったのは、「ありのままの自分!」というのは教育界でいうならば「個性尊重」の「個性」ということにもなるだろうし、詰め込み教育や学歴社会的な勉強や訓練による歪みを取り除いた、アンラーンした、「マインドブロック解除」したあとの「あなた自身の中にぜんぶの答えがある」という「何か」、それはスピリチュアルな「何か」ということにもなるだろうし、輝かしいすばらしい「何か」が、あなた自身の中にすべて眠っている、それに従えば「ミラクル」が起こるよ、ということなのだろう、それはむしろいまものすごく広く受け入れられている感覚なんだよなあ、ということ。
そして、ちょうどさいきんぼんやり思っていた、そういう安直な感覚がひろまっているということと、たとえば何の苦労もしないでぱっと出てくる「直感」っていうかまぁ思い付きが、学歴とか詰め込み教育とか長年の訓練とかの結果を、凌駕する、という感覚がひとびとの - とくに本書で登場する沖縄の貧しく「不幸」な半生を経てきたうえでスピリチュアルの世界に行く人たちのようなひとびとの - あいだに蔓延していることと、それから、たとえばインターネットなど見ていると、まさにちょっとした発想とか偶然とか思い切りとかがインターネットの世界で爆発的にバズって一夜にして有名人になったり成功者(?)になったりするという、まぁ錬金術的な感覚がひろがっているということ、他方で、この不景気で地道な具体的な訓練とか苦労とか手堅い労働とかがさっぱり「成功」に結び付くイメージを結ばない、ということ、社会が提供する「成功」モデルが刹那的というか「ミラクル」的というか、インターネットスピリチュアル的になってる、ということ、そのへんのつながりを考えられないかなあ、等々。ただしまたそこにひとひねりあって、本書のさいごのところのアンケート結果から見る限り、ヒーリングイベントに参加している人たちの学歴は沖縄の平均よりはむしろ高めになっているとあって、もしほんとならそのへんは丁寧に見ていく必要は、まぁあるだろうし、しかしたとえば、いまの学校が子どもたちの中に「知性」と「反知性主義」のどちらを育てているのか、という問いを立てることもできるかもしれない、つまり、ほんらいの知性であれば、人は誰も真理への無限の階梯を昇って行く愛知者として平等、みたいなことになるかもしれないところを、しょうもない点数の上下で軽蔑したり嫉妬したり憎悪したりということばかりになり、おおむねほとんどの子どもたちが自己能力感が低く抑えられ、その結果として、学校こそが「反=(学校的)知性主義」を膨張させてしまい、それで、順序立てた科学的・合理的な構築とかをすっとばしたスピリチュアルな(?)直感主義(とか「実感主義」とか)に親和的になり…おりからの「個性尊重」ともあいまって、…等々…