通勤電車でながしよみ『危険な「美学」』。戦争、死、政治の美学化、といったあたりのはなし。特攻隊のはなしも。

ツイッターかなんかで褒められてたので。まぁ、詩人が戦争協力したはなしと、あと宮崎駿の『風立ちぬ』がやたら美しい美しいといいながらゼロ戦を設計するはなし、それから特攻隊が「同期の桜」を唄いながら花と散っていったみたいなはなし。そんなにめあたらしいはなしがあったかなあ?死の審美化、政治の美学化、といったはなしはべつにめあたらしくないわけだし。またもうひとつ気になったのは、この本が美学業界のビジネスチャンスを増やすか、ということで、高村光太郎の戦争賛美の詩の技巧を美学的に分析してそれがいかに巧みに戦争を審美化しえているかを証明したとしても、だからといってその詩がそれゆえにより問題的であるとなるかどうかはびみょうで、仮にその詩が美学的に言ってもう少し稚拙でも凡夫にはそんな細かい違いはわからずに同様に戦意高揚していたかもしれないし、ぎゃくに、もう少しさらに美学的に高度であってもそれによって凡夫たちをより戦地に赴かせたかどうかはわからない。「同期の桜」がいかに特攻隊員の心を散華のイメージへと導いたかはそれなりにわかるけれど、たぶん若い隊員に自爆特攻させるのにより有効性があったのは覚醒剤だったかもしれないし、まぁいずれにせよ特攻命令が下されれば無理やりにでも出撃せざるをえないところに隊員たちは追い込まれていたんじゃないかと思わんではない。そんなことを思っていたら、この本で美学的な分析をしていても、かりにそれが美学的に正しかったとして、言われるような効果もたしかに存在したにしても、だからといって美学が社会に巨大な影響力を持ち始めることにはならないんじゃないかなあ、という気はしなくはなかった。