通勤電車で読む『賀茂川コミュニケーション塾』。マンスプレイニング、あるいは教授というのはモテるものなのか。

茶店を舞台にしたおはなしで、店主の姪っ子の女子高生が店に入り浸っていてそれが常連客である主人公の相手役になる、みたいな設定は、ありがちっぽくて、さいきんちょっと話題になったマンガの『娘の友達』というのでも主人公の中年男の相手の小悪魔的というかファム・ファタルな女子高生は行きつけの喫茶店をときどき手伝ってる親戚の娘だった。親戚の娘というのは主人公のおじさんにとってなかなか好都合な立ち位置で、常連客である自分に基本的に愛想よくしてくれる立場であるという意味では店側の人間だし、でもあくまで客どうしであるという意味では対等でお互い自由恋愛ないし性的対象になりえなくはないじゃないかと潜在的ににおわすということにもなっている。喫茶店のマスター、というか「マスター」ではなくて、主人公の語りで進む本作では「女主人」に「ミストレス」といちいちルビが振ってあって、この主人公がそういう性別役割呼称にかんしては古風なところをあえて見せててそういうタイプのおじさんだと思うのだけれど、ともあれ喫茶店のマスターないしミストレスは女性で、研究者である主人公の大学の後輩で、頭が良くてなかなか有能な人物であるようなのだけれど、研究の道には進まず、卒業してNPOだかでまちづくりのファシリテーターをやったりして、ある仕事では大学教授となった主人公といっしょに仕事をしたりしながら、結局、いまはそれもやめて喫茶店の「女主人」になっている、という人のよう。学生時代から主人公とは腐れ縁ということなのだけれど、主人公のほうは研究を続けて教授になり、大学のサバティカルか何かを使って執筆に励もうということでノートパソコンを持ってこの喫茶店に通い詰めていて、女主人は教授にお茶やランチを(ときにはサービスで、また、なにもいわないのにすべてわかったいいタイミングで)出したり、また昔ともに学んだりまちづくり活動に活かしたりしてきた専門的な話を、教授がするのを聞いたりしているよう。で、姪っ子の女子高生を教授に引き合わせるのもこの女主人。女子高生は「質問魔」であるという設定で、教授としては執筆に集中したいのに、やれやれこれでまた今日の執筆の時間が無くなってしまう、と迷惑そうなふうも大いに見せつつ女子高生に滔々と話を聞かせる。女子高生は基本、素直にその話を聞くし、まぁいかにも女子高生ふう的な反応とか姿態とかを見せながら、教授の語りに曰く、

僕は、そのマドカの反応に思わず首を縦に三回振った。
ー この子は、本当に勘がいい。質問魔で生意気だけど。重要なポイントはよく覚えている。まさにそう、そういうことなのだ。

というかんじ。
で、そんなこんなをしつつ教授がひと夏で書き上げた本が、この本、というメタフィクション的な仕掛けなのだろうと思う。内容は、コミュニケーションについて。どのようにデザインされた場のメカニズムの中で言葉が語られるかについて。人間とロボットについて。赤ちゃんのようにはじめて見聞きするものごとを懸命に理解しようとする、あるいはかなり勘のいい理解を示して人間をちょっと驚かせたりもするロボットとのコミュニケーションについて。自由市場で貨幣を介したコミュニケーションが最適解を導き出すスマートな社会について。等々。
帯に、「ビブリオバトルの考案者にして、人工知能の研究者がコミュニケーションの新しい視点を伝授!教授と高校生の対話によるライトノベル形式の入門書」と書いてある。まぁそういう本なのだけれど、関係ないけどまえ読んだ↓この本とかも思い出しつつ読んだ。
通勤電車でとばし読む『 マジ文章書けないんだけど』。おっさんが就活をダシに女子大生に作文を教えて運命の師匠と呼ばれちゃうファンタジー。 - クリッピングとメモ