『話し手の意味の心理性と公共性』。5章から身を乗り出して読んだ。もう相互行為分析やっちゃえばいいのにとおもいつつ。

たしかなくなる前のジュンク堂で買って、ちょっと読んでしばらく後回しになってて連休以来また少しずつ読んでた。著者は哲学の方で、言語についての本。サブタイトルに「コミュニケーションの哲学へ」と書いてある。それで、この本も「やりたいことがちがう」なあと思いつつ読んで、それでちょっとストップしてたところはある。というのも、この本で取り上げられて格闘の相手になってる「意図基盤意味論」というのが、じつは直観的にさっぱりぴんとこなくて、言葉の意味の基盤を意図に置くことなんてはなからできるわけないじゃん、と感覚的に思う側の人なので、そうすると意図基盤意味論の検討の詳細な議論のところを読みながら、著者の人がとても丁寧に検討しているのを見てやきもきしながら、もうそんなやつのことほっといちゃえばいいのに!とこちとらさっぱり議論が頭に入らず、それでまぁ仕事が慌ただしかったこともあってしばらく後回しになったわけだけれど連休で少し心に余裕ができて、さあそろそろ、と再開して、5章の途中あたりから、規範性とかが正面に据えられはじめて、「一緒に歩くこと」とかまったくエスノメソドロジーの歩くことについての議論だよなあ、とか盛り上がって膝を乗り出しつつ、また、公共性あっての私秘性っていうか心理性?だよそうそう、といいつつ読み、もう相互行為分析やっちゃえばいいのに、というのが感想だったので、まったくこの本そのものに関しては良い読者ではなかったという。言語学や哲学のものをよむと、「やりたいことがちがう」なあと思うことがあって、この本も中心部の議論はそんな感じがしたし、精密な議論が、柔らかい文体と、それから柔らかくてほほえましい例文や仮想例をあげつつ検討が進んでいるのがこの本の美点じゃないのさ、とわかりつつも、もっとふつうの日常の人々の活動を録画して分析したら面白いのになあと思うのだった。たとえば、まぁ教育社会学の人なので学校の授業とかで、まぁがやがやしてる教室に、先生がぼーっと入ってきて「あー授業始めるぞお」と言う、それで少し静かになり、少しがやがやしてるままで、先生が教科書を開けて喋り出す、みたいな場面(これもいまは仮想例だけど)。色々な生徒がいて、授業をまじめに受ける子、我慢して受ける子、それからおしゃべりし続ける子、いるだろうし、かれらが「教室」の中で共同的な場を作りだしている、として、そこで何が起こっているか。みたいなことを考える。「授業始めるぞ」の意味とか、それが発効する規範?をそれぞれの生徒がどう受け止めるか、とか。例えば喋りつづけてる子に、「もう授業始まってるんじゃない?」と聞いたら「あーそうだっけ?あいつさっきなんか言ってた?独り言じゃね?」みたいに答えるとか?でも、授業が始まってることを知らないかと言えば、やはり席についてちょっと休み時間のときよりは声小さ目で喋るとか。まぁ実際にビデオでも回したらなんかいろいろなことが起こってるのが見えてくるような気がする。そういう場面が、この本の提起する「共同性基盤意味論」というののいい感じの使い道になるのか、なるんじゃないかと思いつつ、しかしやはり「やりたいことがちがう」のかなあとも思いつつ、というのが感想。