通勤電車で読む『ブリーフセラピー講義』『家族療法プロフェッショナル・セミナー』『解決の物語から学ぶブリーフセラピーのエッセンス』。

若島短期療法本を読むシリーズ(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/12/08/132330 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/12/25/234124 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2021/01/10/011625)。著者の人の、理屈の部分を読める本。
ふつうの喋ってる感じの文章とか、セッションの記録を見たりするとなんとなくへらへらしてる人なのかなと思うけれど、理屈の部分は切れ味がいい、ということか。『ブリーフセラピー講義』は、著者によるワークショップの記録。オーディエンスはたぶん心理士の人とかかな? 講義と、それからロールプレイで公開セッションをやって、それをふりかえったりしてる。「二刀流から新陰流へ」とか、やはりなんのこっちゃという言い回しはあるものの、かなり勉強になる。ロールプレイのときのへらへら加減と、解説の喋りの時のちゃんとしてる感じのギャップ。あ、でも、いくつか著者の人のセッションを読むと、へらへらしてるんだけどいつも同じ感じでへらへらしていて、ということはそれは正確な技術としてやってるということなのだろう。セラピストのほうが「上」にならない、「下」になるように、ということのよう。あと、おお、と思ったのは、途中でロジャースに言及しているところ。見かけ上のスタイルは違えど、考え方の根本は通じるものがあるということだろう。わからんではない。たぶんクライアント中心療法といっても、たんに相槌やオウム返しをはあはあへえへえ言ってるだけの共感ポーズだけではらちがあかないであろうし、ちゃんとカウンセリングの「いまここ」に忠実であればここぞというところをぱっと捕まえて切り込むのだろう、と想像する(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20090614/p2)。そのいみでは、見かけ上のスタイルの違いにもかかわらず近いものがあるのかなあと。
『家族療法プロフェッショナル・セミナー』は、大学院生ぐらいの人たちとの対話というか問答で、大学院ゼミをのぞいているかんじ。で、理論的な概念とか、実証研究の報告とか、技法についての考え方とか、ほんとにゼミ的にやってる。弟子たちに語る導師かカリスマのようなかんじ。
『解決の物語から学ぶ』は、ブリーフセラピーのとくに「ケース・フォーミュレーション」という局面に焦点化した共編著のテキスト。ケース・フォーミュレーションとは「出会ったケースに、どのような見通しを持って、あるいはどのような道筋を描いて、クライアントとのやりとりを進めていくかということ」だそうだ。で、いくつかの項目ごとに章が立てられてて、それぞれ6つずつの簡単なケース紹介(2ページずつぐらい×6)をしつつ解説されている。たとえば不登校の子どもをつれた母親の面接で、母親がいくら言っても子供は登校せず、おまけにどうやら母親は母親で仕事がたいへんでうつを抱えているよう。それを見て、子どものほうに、「おかあさんにガミガミ言われて家でもめんどくさい思いをしてるんだろうね、ところで、お母さんのほうもお仕事でたいへんみたいで体調も悪そうなのは知ってるかな? 今日せっかく君に来てもらったんだから、まぁきみが学校に行くかどうかは別にここでどうこういわないので、ひとつ、お母さんが少しでも楽になるように助けてあげてほしいんだ、力を貸してくれるかな?」というかんじで切り出して、そっちの方向で、「君にできそうな何か思い浮かぶかな?」と言ったら子どもが「…学校に行く」と。で、あとは、どうすれば無理なく学校に行けるかを子どもと相談しましたよと。うむむ。この前から自分は「メキシコのプロレス」のイメージを持ってるんだけれど、そういう、うまい角度からの持って行き方 - 見通し、道筋 - をパシッと決めることで後がスッとうまく運ぶ、というところが面白い。ブリーフセラピーのトレーニングは、この「ケース・フォーミュレーション」の練習(これはあるいみ頭の訓練)と、その切り口から実際に具体的にやりとりをしてセラピーを進める技術の訓練(これは文字通りの実践的技術のトレーニング)とを両輪としているのだよ、そのうちこのテキストは前者の修得のためのテキストだよ、と。