『ナラエビ医療学講座』読んだ。ナラティブ・ベイスト・メディスンとエビデンス・ベイスト・メディスンの統合であると。

ナラエビ医療学講座: 物語と科学の統合を目指して

ナラエビ医療学講座: 物語と科学の統合を目指して

  • 作者:斎藤 清二
  • 発売日: 2011/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
たしかなんかの検索かなにかで出てきておもしろそうだったっていうかこわいものみたさというのもあったのでいくつか入手してみた。この本はもともと富山大保健管理センターの広報誌の連載エッセイだったのを2005年に本にして、それをまた2011年に増補版で出したもの。教授と二人の学生の会話というかたちで書かれていて、まぁ読みやすいというか。で、著者の人はたぶん団塊のしっぽぐらいの世代で、男女二人の学生の名前が「愛」と「誠」だったり、アリストテレスに言及するときに「ソ、ソ、ソクラテスプラトンか…みーんな悩んで大きくなった~」の歌に出てくる…出てこないじゃないの!みたいなもう誰もわからない冗談だとか、かなり読んでて気が滅入るところはなくはないのだけれどそれはそれ。あと、連載時の話題だったのだろうがSARSがギャグになってて「ゴホッゴホッ…最近台湾に行って…」「先生お大事にさようならー!」「冗談だよ冗談」「おどかさないでください、SARSかと思っちゃったじゃないですか」みたいに使われてるのが厳しいかんじはするけどそれもそれ。
で、懸案の「ナラエビ」である。ナラティブ・ベイスト・メディスンとエビデンス・ベイスト・メディスンの統合であると。読む前の予想では、まぁ看護師とかの人がナラティブセラピーみたいなやりかたで患者理解したりケアしたりするぐらいの話かなと思っていたのだけれど、登場人物は医者と医学生で、かんじからいって、EBMというのが出てきているがそれだけだとたらないのでナラティブも大事だよ、そしてナラティブとはようするに傾聴+認知行動療法(といいつつじっさいに参照するのはA.エリス)+ちょっぴり物語論的な解釈、だよ、というぐらいのかんじ。まぁ、そのぐらいの話であれば大いに穏当。
ところで、富山大学というと、中河先生が「構築主義」の重要な仕事をしてらしたときの所属大学だったなあと思いつつ読んでた(みてみたら、1983-2001年に所属されてたんですな)。そうすると、この本が出た2005年や増補版が出た2011年にはもちろん富山大にはいらっしゃらなかったわけだけれど、なにか交流とかあったのかしらというのはちらっとよぎった。本書の中では、「構成論」「構築論」というワードが「実在論」との対比で最初のほうにちらっと出てきて、また最終回(これはほけかんの連載時にも最終回だったようだ)にも「構築主義とか構成主義」というワードが出てきた。
それとどう絡むか微妙なくだりとしては、

斎藤 おいおい。…君たちこの場のコンテクストを壊すようなことはやめてくれたまえ。「作者の意図」なんて言い出したら、何を言っているのか読者には分からなくなってしまうよ。
誠・愛 あーっ、先生それってずるいっすよ。先生こそ、この連載が実はフィクションだっていうコンテクストを操る権力を隠蔽しつつ独占しているじゃありませんか!
斎藤 分かった、分かった。どこかの頭の硬い社会学者のような言い方はよしてくれたまえ。…えっへん。ことほどさように、コンテクストという概念を言葉に上らせると、我々の頭は混乱してしまうのだよ。元来コンテクストとは、目に見えないものであり、正確に言葉で表現することはできないものなのだ。確かに私たちは、コンテクストに操られていると感じているけれども、コンテクストを明示的に操る能力を独占する個人なんてどこにもいないのさ。(p.197)

このくだりが、ある種の社会学に対する言及であることは見て取れるのだけれど、具体的に誰のどの主張、ということになるとよくわからない。