通勤電車で読んでた『途上国の人々との話し方 - 国際協力メタファシリテーションの手法』。卒論指導やインタビューのことを考えつつ面白く読んだ。

隣の学科の若い先生と卒論指導の話とかをしていて、あるときふと、この本を紹介された。それで、国際協力?メタファシリテーション?と思いつつ入手して読んでみたら、なるほど、卒論指導のことを連想するところはあって、面白かった。ありがたや。
著者の人たちは、途上国の貧しいかんじの村とかに行って国際協力とか援助とかしている人。ところが、意外とうまくいかない。井戸を作ったり植林をしたりしても、次に行ったらほったらかしになっててさびれたりしてるよと。つまり、こちらのつもりとしては貧困の人たちに援助とかしたらそこからよしがんばるぞってことになってくれる、みたいなイメージなんだけど実際は、外国から知らん人が上から目線でやってきて、おまえは困ってるだろうから援助するぞと言われればまぁ断る理由もないのでハイハイとそれらしいことを言ってたら井戸とか作ってくれる、それだけ、という、まぁ受け身な感じになってるじゃないかと。なんでまたそうなるかというと、そもそも援助する側のやりかたがわるいんである、現地の人たちとうまくコミュニケーションもできてないのにできてるような錯覚ばかり得て、現実が見えないまま見えてるつもりで「援助」をしたつもりになってるけど、当の村の人たちは、なんかしらんけどハイハイ言うてたら「援助」してくれた、じゃあまた来たらまた次は何をくれるんかいな、とまぁ、なるよと。そうすると、村のコミュニティがちゃんと主体的になってくれるようなファシリテーションが必要だよ、ということで、ファシリテーションのおはなしになってくるわけである。で、その手法を対話型ファシリテーションと言ったり、それからサブタイトルにもなってるメタファシリテーションと言ったりしてるわけだけれど、まぁメタファシリテーションという言葉の意味はうまく説明されてたかどうかはよくわからない。ある個所では、コミュニケーションをしながら自分の問いを俯瞰で考える、みたいな二重構造をもった対話術ということで、

私たちは当初、この二重構造を持った対話術に特に名前を与えることはしなかったが、その構造をさらに深く探っていくうちに、それを「メタ認知理論に基づくファシリテーション手法」と言い表すことができると考えるようになった。しかしながら、メタ認知ファシリテーションではいかにも長すぎた。どうせそれだけでは意味が分からないのであれば、用語は単純にしたほうが覚えやすくてインパクトも大きい。そう考えて、私たちはこの方法を、「メタファシリテーション」と名付けることとした。(p120)

というかんじに書かれてるのだけれどこれはちょっと乱暴で、メタ認知ファシリテーションをメタファシリテーションと呼ぶのは、天ぷらそば定食を天ぷら定食と呼ぶようなかんじがなくはない。
まぁそれはいい。
で、この本を紹介されたのが、卒論指導の話をしていたときだってことで、この本、確かに、ふたつのいみで卒論とかを連想する。
ひとつめは、このはなしはたしかに、国際協力だけでなくて、ファシリテーションをする際にちゃんとコミュニティの主体性を引き出すことができるように、というところでは、学生さんの指導とかでもあてはまるなあ、ということで、まぁそれはそうだと。教師のほうがいろいろぐいぐい行くほど、学生さんが受け身の態度に慣れちゃう、ということはありそうだし気を付けないといけないところ。
で、もうひとつは、その先生の学科にせよ自分のとこにせよ、卒論で学生さんがインタビュー調査とかするときの考え方として、ひとつの参考になるなあ、ということ。
えーとつまり、この本の「メタファシリテーション」の具体的な手法というのが、インタビューを核としていて、しかも、短い一問一答式の、クローズドクエスチョンのインタビューの繰り返しによって、現地の実態に迫るよ、というものだから、これはインタビュー方法論でもあるのだ。
ただ、技法として表面だけ見れば、短い一問一答式のインタビューというのは自分的に見てどっちかというとダメなインタビューのイメージなんである。なので説明をおぎなわないといかんのだけれど、これなにがポイントかというと、さしあたり第一には、いかにして「具体的な事実」の質問をするか、という手法なのであって、まぁ短いとか一問一答とかいうのは、具体的な事実の質問をするためのやりかた、のようなのである。たとえば「この村でいちばん困っていることは何ですか?」「子どもがよく下痢になるんです」「なぜなんでしょうか?」「きれいな水がないからですかね」「では井戸を掘ったらちゃんとその後管理できますか?」「できますできます」みたいなやりとりは、だめな例であるわけで、これは具体的事実ではなくて、「考え」を聞いてるわけで、その場で何とでも答えられる、っていうか、「村で一番困っていること」なんてすぐ答えられるわけではなくてようするにぱっとその場の思い付きで言うわけだし、しかもなんかしらんけど援助をしてくれるという人が質問してきてるわけだから、なんか援助してくれやすいようにうまく答えるわけである。もちろん、「あとあと管理できるか?」なんて上から目線で聞かれてわざわざ「できません」とは答えないわけで、でもべつに適当に答えてあとあとできなくても、そんなん口先だけで確約をとろうとするほうがどうかしてるわけで、まぁ急に聞かれたから答えましたという以上の何の責任もないわけである。そりゃそうだ。
なので、ぼやっとした質問ではなくて、単純で具体的な事実を聞く質問をすべしなのだと。「この薬屋は立派な店ですね。あなたの店ですか?」「そうです」「何年前からやってるのですか?」「8年になります」「店は毎日開けますか?」「毎日です」「今朝は何時に開けましたか?」「9時半ごろかな」「開店から今までにお客さんは何人来ましたか?」「4人です」「どの薬が売れましたか?」「ひとりは胃薬、あとの3人は筋肉痛の薬です」「ほう、それは意外です。昨日はどうでした?」「昨日も、筋肉痛の薬が一番多かったですね」みたいな。えーとだからなんなのかというと、スラムの薬屋さんで、まぁ下痢の薬か熱の薬かそんなところかと思ったら、筋肉痛だと。つまり、ぱっと思いつくイメージとはちがってじっさいには、スラムの人たちはそれだけ日雇いとかの過酷な肉体労働をしてるんじゃないかというのが見えてくるよと。まぁそりゃそうか。
でまぁ、おはなしがもとにもどって、これ、インタビュー手法としてどうなのかということだけれど、まぁひとつには、国際協力で、ときには通訳を介して、村の人たちとコミュニケーションするよ、という条件も込みで考えて、まぁなるほど、というかんじ。たぶんそうじゃなかったら、べつにふつうに気を付けて具体的事実の質問をふつうに - 一問一答にならないように - してももんだいはない、というか、ここで言われてるような一問一答式の質問を矢継ぎ早にするというのはちょっとしんどくないか、という気はする。
なのだけれど、もうひとつ、こういう質問手法をとる理由というのが説明されてて、つまり、貧困地域の村の人とかに援助者が質問したりするときにはどうしても上からなかんじになっちゃうわけで、だけどこういう単純で具体的ですぐ答えられる質問だと、すぐ答えられるし、しかも答える側が「なんでもどんどん教えてやってる感」を感じられてセルフエスティームが高くなる、これが大事なんだよと。援助してくれるという相手の顔色を伺いながら、何を言ったらうまく助けてくれるのか探り探り答えをひねり出す、みたいなのはよろしくないよと。そりゃそうだ。
なので、考え方として面白いし、たとえば学生さんが卒論でインタビューをするときだって、相手はせっかくだからなるべくいいことを言ってやろうと思ってくれるわけでそこを乗り越えたインタビューをするためには、この本の考え方や手法は大いに参考になるだろうと。

補足が要るな。
村の人が主体的でないというのはそれはそれで上から目線で、もちろん、現実には村の人は村のやり方で主体的に生活をしているわけである。ただそれが、支援側のイメージする「主体的活動」とは違う、ということで。そこで何が問題かと言うと、よりマクロなコンテクストで村が近代的な市場システムの中に投げ込まれているということで、実は現代の村が直面してる貧困の原因もそこにある、つまり、市場システムが伝統的な村のシステムを破壊しつつ広がっているときに、それに乗っていけない村の人々が貧困層として産み出されていく、という仕組みになっちゃってて、その構図を見てないと支援もできないよ、と。支援側のイメージする「主体的活動」は、あくまで市場システムにマッチするスタイルなわけで、そこに当てはまらないものを「主体的じゃない」と見なしてしまう、だから、まるで白紙の状態の村に主体性を教えてやってるのだみたいな上から目線にしかならず、村の現実とすれ違ってしまう。くりかえすならば支援側のイメージする「主体的活動」は、あくまで市場システムにマッチするスタイルなわけで、良くも悪くもそうでしかありえないというのを、ひとつ、自覚したうえで、村の人々のやり方を捨てさせて、市場システムにマッチできるやり方に、変えさせないといけない。支援というのはたぶんそういうしごとなのである。良くも悪くも。