積読本の中におもしろそうな
エスノグラフィーが積み重なってきた。で、この本は、ネパールの
プロテスタンティズムについての本。お話の前提として、まず、ネパールに
プロテスタンティズムがあったんや、というところだけれど、いやまぁそれはあるでしょうということでもあるけれど、
プロテスタントは世界中で布教をしていますよ、だからネパールにも布教したのですよということでもありそうなんだけれど、その前に、ネパールというのはかなり大きな政治社会的変化があった国で、あれこれあった中で
民主化のうごきもあり、また
ヒンドゥー教を国教としてたのをやめてネパールが「
世俗主義国家」になったのが2007年暫定
憲法によってであると。そうなると、あ、最近なのね、というふうにも見えるし、ネパールの
プロテスタントというのが、伝統的な
儀礼やら習俗やらと折り合いをつけながら広がってるというとけっこうおもしろそうなかんじもしてくる。また、この布教というのが、多くの場合、国際支援ともからんでいるというのもあるというので、まぁおもしろそう。で、そもそも、
ネパール語で「宗教」というのは「ダルマ」というのだそうで、しかし
プロテスタントの人たちは「信頼する」「頼りにする」といったかなり一般的な意味合いを含む「ビシュワース」という単語を「信仰」の定訳として使っている、みたいなはなしを入り口に、ネパールの
プロテスタンティズムの「信仰」の
排他主義を描き、彼らが伝統的
ヒンドゥー社会や「宗教 ダルマ」を断ち切って
プロテスタンティズムの「信仰 ビシュワース」にコミットしていくことを描き出す。で、彼らはそこで
プロテスタントの共同体を作っているのだけれど、ふしぎなことに、その中ではお互いに「あいつは金目当てだ」「名誉欲だ」「あいつには用心しろ」みたいにお互いに疑いあってるというのである。それが、この本のタイトルである「不信の支える信仰共同体」というやつで、まぁ読んでいると、
ウェーバーが『プロ倫』で(あるいは
デュルケームが『自殺論』で)描いたような、
個人主義的で合理主義的で観念的内面的な
プロテスタント、というのとはちょっとイメージ違うなあというかんじがたしかにあるし、信仰を共同体が支えるみたいなところだけでいえばむしろ図式的には
カトリックのほうに近い理屈を感じなくはない(そのへん、あるところでは「ネパールのクリスチャン共同体は、結果としては
ジンメルが描き出した
カトリック教会に近いのかもしれない」(p212)みたいなことも言ってる)。まぁしかし、図式に現実をきれいに当てはめようとしてもいみないってのもある。著者の人は高校の頃に親の仕事の都合で
アメリカに住んだということで、そこがバイブル・ベルト、
キリスト教原理主義の地域だったと。善意の、しかしゴリゴリの隣人たちと触れ合いながら過ごしたわけで、そうすると、
アメリカの
プロテスタントはどうなのか、というのがまず原点だったということか。世界は広いわけで、
プロテスタントもいろいろなわけで、なので、ネパールの
プロテスタントはこうだよ、といったかんじか。