通勤電車で読んでた『NAM総括』。じっさいに運動を始めたから失敗することができた、それをどう糧にするか、的なおはなし。

NAM総括: 運動の未来のために

NAM総括: 運動の未来のために

当時に『批評空間』の読者ということではなかったのだけれど、世代的に、NAMというのを柄谷行人が始めた、本気らしい、みたいなのは、へえーと言いつつ知ってたし、そのとき行ってた非常勤先の講師室にNAMの何かのチラシ?が置いてあったのを見たこともあって、意外とそう遠いところでやってる話でもないのかなと思っていた覚えはある。関連の本もその時に読んだと思う。また、当時けっこう耳にした地域通貨というのも、NAMがそんなことをやっているよというので知ったぐらいだったと思う。それでまぁ、しかしNAMというのも結局あっけなく解体してしまったようで、この本で読んだらあらためて、2年半ぐらいの短い期間だったのだと知った。そんなもんだったかなあと。
で、この本、そのNAMの中の人だった著者が、当時起こっていたことをひとつひとつおさらいして検証するよという本。なんでそんなことをするのかというと、当時から「やっぱり柄谷にせよその取り巻きの柄谷ファンにせよ、世間知らずの思い付きで勝手に盛り上がって勝手に内輪もめして解散とかバカみたい」というかんじの、まぁはたから見てるかぎり自分含めみんなそのていどの感想を持っておしまいなわけで、でも、実際のところはもっと実務的ないろいろなことが起こっていて、それをひとつひとつ乗り越えていこうとしながら、けっきょくどうにもこうにもうまくいかなくなって破綻する、という、そういってみればこんどはどこにでも起こっている身につまされるおはなし、という面がある。で、なにもやらなければ失敗もない、実際に運動を始めたから失敗することができたわけで、それをどう糧にして前に進むかが重要ということになるわけである。
でまぁ、たしかに読んでると身につまされる。つまらないはなし、自分も小さな研究会をやったりそれがうまくいかなくなったりしたことはあるわけで、たとえばそういうのとも地続きのはなしもある。身につまされて悲しくなる。で、しかし、だからといって誰も何もやらないから今の現状なわけで、なんかやったから失敗することもできたわけである。

運動の行方は大体シビアな予測の通りになるものだ。
しかし、予測を遠く飛び越えた結果が到来することがある。
それは予測通りの結果になることを予測しながら、
運動し続けていないと、到来しない。

というわけだよと。なので、総括こそ大事(この本、基本的にほとんどまじめで真剣な人、しかも頭のいい人、しか出てこない。なので、総括と言っても「誰が悪い」「誰のせいだ」みたいな話ではない。むしろ、運動なり組織なりをやっているとどこでもうまくいかない同じ構造が生まれるね、それを乗り越える仕掛けをNAMは工夫したはずだけどやはりうまくいかなかったね、それはなぜか、じゃあどうすればいいのか、等々)。
じっさい、NAMにおいて可能性としてあったものがいろいろ検討されていて、たとえば、はたからぼんやり見てたかぎりNAMというのは柄谷行人の哲学的文学的(な見かけをまとった左翼出身者ならではの)思い付きに美学的なポストモダンあんちゃんたちが勝手に盛り上がって騒いでた、みたいなイメージだけれど、中の人から見れば、NAMに集まってきた人たちのなかには、何十年も粘り強く運動をやってきた面々がかなりいて(たとえば自然農法のひとたちとか)、そういう人たちのネットワークを顕在化させてほかの色んな運動とも接続して全面化するようなねらいと可能性がNAMにはあったかもしれんわけである。たとえば、もし、そういう人たちが、一見真逆に見える、ハッカーの人たちやベンチャーの人たちと接続したら、いつのまにか、現行の資本主義のシステムそのものを作り変えてしまうようにならないか(いま、たぶんサイアクなかんじでシステムを作りかえてしまう勢いのGAFAだって最初はちいさいところからスタートしてたかもなわけで、また、GAFAなりの「世界をよくする」理念のようなものだってあったはずだし、ある種の左派的な感性をそこにみつけることだってできるかもしれない…)。
まぁだからこの本、だいたい誰でも身につまされて悲しくなる本ではあるけど、まぁでもそうだよなあ、あきらめるのはよくないなあ、粘り強くあるべしなんだろうなあ、と思わせるところもあるわけである。