通勤電車で読む『モテないけど生きてます』。これを当事者研究と呼ぶことの是非と残酷さ?

「ぼくらの非モテ研究会」と称する、まぁ非モテの人たちが語り合う当事者グループがあるというのである。それで、その活動の紹介と、そこでどんなことが行われて語られているかというのが本になったよというのがこの本であると。それで、この会は非モテの人たちが語り合う当事者グループだとして、でまぁ、目的としてモテるようになりたいという目的があるわけでは(当然)ない。で、たぶん、解放されましょうという目的が積極的にあるわけでもない。でまぁ、ただ集まって、いろいろ語り合うよと。もちろん結果的に何かから(例えば捉われからとか)解放される人は、いるだろうし、まぁいるみたい。なので、それはそれでいいじゃん、そうですねというはなしである。
以下は蛇足。
この本に関しては、これはサブタイトルにも「当事者研究」という言葉を使っているし、まぁ、「研究」ということばがちょくちょく出てくる。じゃ、これは「研究」なのか?というか、「研究」として評価したときにこれはどうなのか?というふうに言いたくならないか。「当事者研究」なんだから、当事者が自分で語りだした言葉を真正なものとして評価すべしという理屈がゼロでないことはわかる。いかに客観科学的には陳腐で稚拙なように見えても、それが当事者の語りなんだから定義上それが真正である、という理屈はありうるだろう。でもそういう評価のされかたは当人的にはうれしいのか?とはやはり思う。これはこの本がどうこうということじゃなくて、「当事者研究」と称する「研究」はどれも同じ理屈を通過することになると思う。
そして言わずもがなの蛇足をもうひとつ。
この本を、たんなる作文集として出すのではなく、「当事者研究」として出すことに、「研究」のための意義とはべつに、「当事者」のための意義というのがあってしまったりしないか、ということが気になり、しかしそうすると、この本を「研究」としていいとかわるいとか評価することが、「当事者」にとって実存的な意味を持ってしまうんじゃないかという懸念を持つ。そういう出し方をしてよかったんだろうか?