『福沢諭吉』みた。

澤井信一郎監督の、何が目的で撮られたのかよくわからない福沢諭吉の伝記映画。むかしに録画してあったつんどくのDVDより。まぁ、大河ドラマみたいな感じで見られるかなと思って見たけどそうでもない。やはり2時間でまとめないといけないので大河ドラマみたいにゆっくりしていられないというのはある。いきなり福沢諭吉柴田恭兵で、立派な感じはしない。Wikipediaには、本作が制作された経緯とか書いてある。
福沢諭吉 (映画) - Wikipedia

福沢諭吉の崇拝者である雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が、古くから付き合いのある岡田茂東映社長(当時)に企画を提出し、岡田はまだ承諾していないのに、佐藤が「東映福澤諭吉を映画にするから賛助金を」と企業からどんどん金を集めて回ったため作らざるを得なくなった[5][6][7][8][9]。結局、全製作費を佐藤自身で用意するという約束で東映で製作を決めた

なるほど。
脚本が笠原和夫と聞くと期待してしまいそうなのだが、

岡田社長から笠原和夫に電話があり「おい、一万円やるぞ!」「はぁ?」「一万円や、お前、書け」と笠原が脚本を担当[6][7]。「どうしたらいいですか?」と聞いたら「どうでもいいから、とにかくパーっと景気にいい話にしてくれ」と指示された[6]。笠原は福沢諭吉が好きではなかったがやむなく脚本に取り掛かり、いつものように福沢の資料を山ほど集めたが、福沢諭吉自体は愛人も一人もいないような映画的な題材には面白みのない人で[12]、…

ということで、また、

笠原の第一稿は東映調のスペクタクルなシナリオだったが、澤井が気に入らず揉めた[11]。笠原は打ち合わせで初めて澤井に会うなり開口一番「笠原さん、私はドラマは要りません」と言われ、「ドラマがいらないならシナリオライターはいらないんじゃないか」と降りようとした。しかし岡田裕介に引き止められ、数日後再度話し合いが持たれ、澤井が「福沢が英語教師をやっていた話なんかをマジに描きたい」と言うから「そんなの画になるかね?」「それなら君が自分で書いたらいいじゃない」と言ったら「力を貸して下さい」と言うので、「福沢と子供の頃からの友人で、福沢と正反対のような人生を歩んでいる奥平壱岐を絡ませる話にしたらどうだ」と提案したら「笠原さん、私はそれを捜していたんです!」と言うから「バカ言ってるんじゃないよ、これはドラマじゃないか」と言ってやったなどと話している[6][7]。

だそうだ。もう一人の脚本家、桂千穂いわくということで、

桂は「これで監督が舛田利雄さんだったら、すんなり東映調の大作で成立したんでしょうが。東映京都撮影所(以下、京撮)の意向と、澤井さんのやりたいこと、それに笠原さん自身が描きたいテーマ。その三つの接点が見出せなくて、硬直状態になっていたようです。それであいつなら何か出るんじゃないかって、僕を巻き込もうということだったと思う」などと述べている[11]。桂は笠原の二歳下の同世代で似たような戦争体験を持ち話も合い、大半は桂が書いたという

だそうだ。まぁなるほどというかなんというか。