通勤電車で読む『スポーツが愛するテクノロジー』。もとエスノメソドロジーの人。ルールとその運用の曖昧さ、判定と採点、テクノロジーと「見え」の変容など。

著者の人は、むかし、ガーフィンケル論を書いていたので見覚えのある人。
ci.nii.ac.jp
で、スポーツとテクノロジーかぁ、と思いながら読んでみたら、テクノロジー論というよりは、著者自身言うように、「スポーツについてルールから考える」という本だった。スポーツは(ゲームは)ルールとその運用からできてて、でもルールや運用は曖昧さを含んでるから、判定とか採点がどのように実践されるかに注目するのは興味深いことで、ルールや判定や採点の組織的な実践を跡付けると面白いわけなのだが(新体操の採点ルールの変遷の歴史や、サッカーのVARや大相撲のビデオ判定の導入をめぐる議論など)、そこにまたテクノロジーがかかわることによって「見え」が変容するよ(テニスとかの「ホークアイ」というあの変なCGの判定システムは私たちに何を見せているのか)、みたいなお話で、これはエスノメソドロジーをやっていた人だなあというかんじなのだった。というわけで、これはいい本。
あ、そうそう、著者の人は世代的に自分とそんなに違わんのではと思うのだけれど、世代的に読んだんじゃないかと思う橋爪ンシュタイン=ハートの「審判のいるゲーム/いないゲーム」の話題が出てこなくて、種本は『キリギリスの哲学』という本ってことになってる。
人間にとって法とは何か - 橋爪大三郎 - Google ブックス
で、それでいうと自分もこのところずっと、囲碁とかスポーツをテレビで見ることについての研究をしたいなあと思って、ちょっと予告したり、また秋学期にそんな授業をやってみようかなと思ったりしてるので、ちょうど参考になる本が出てきたけど近すぎないかなあ、よかったけど困ったのかなあ、まぁちょっと焦点が違うからいいかぁ、と思っているところ。自分は、ルールの曖昧さとその運用みたいなはなしは校則論でやったのだけど、スポーツについては「見ること」と経験に照準しようかなあと思ってるのでたぶん別の話になると思う。