通勤電車で読む『他者の発見 演劇教育から人類学、ボランティアと地域活性論への架け橋』。「他者をなぞるように演じる」手法による自己相対化・変容、という。

著者は演劇をやったりしつつ人類学でフィールドワークをやったりもする人で、そのへんを活かしつつ、また演劇ワークショップのファシリテーターとか大学でボランティアのコーディネーターとかやってたのも含めて、本書が出来上がってる。基本は演劇教育のおはなしで、おもに大学生に授業で演劇教育(演劇の手法をもちいたフィールドワークの授業、かな)をやったり、まぁその延長で、地域の団地(独居高齢者がたくさん住んでる)にかかわる学生のボランティア団体が立ち上がって、コミュニティカフェでなんやかんやする、そのなかで演劇的手法ももちいつつ地域の人たちにかかわる、みたいなおはなし。
フォーラムシアター、というのが出てきて、秋葉さんのエンゲスノのはなしで聞いたなあと思いつつ読んでたらもちろん秋葉さんも先行研究として参照されてる。
で、この本は、「他者をなぞるように演じる」手法による自己相対化・変容、という筋書きで、俳優の役作り(メソッド演技ではよろしくないらしい)で、身体感覚をよりどころにしつついろいろやっていると自他のハザマに立つことになり、そこで安易に分かろうとせずにやり続けるうちに自己相対化がおこるよ、みたいな理屈で、それを学生さんにやらせる。着地点が自己相対化なので、読んでるこちらの印象としては、エンゲスノというよりは、好井先生のヴァージョンの批判的エスノメソドロジー、ぐらいのかんじをうける(エンゲスノだと、「社会問題」という契機があって、ある種の緊張関係みたいなものを感じる)。でまぁ、技法として演劇というのがあるので、そこがミソかと思う。ロールプレイじゃなくて、というのを強調していて、まぁ、ロールじゃなくてその人物を「なぞるように演じる」というのだから、まぁ違うのだろうなとは思う。
事例としては、やはりコミュニティカフェの章がちょっとおもしろそうだったし、技法として演劇を用いるかどうかは別として、やはりそういう社会教育的な展開というのは著者も強調してるようにあるだろうなと思う。他方で、とくに授業とか、まぁボランティアでも学生さんだと難しいかなと思うのは、技法として「強すぎる」というか、学校という枠の外側の、社会で生きているじっさいの人を「なぞるように演じ」たりしながら関わったりしているのを読むと、これ、こじれたら怖いなとか思うってのもある。同じことをやろうとして、たとえば地域でちょっとハブられてるおじさんとかに、女子学生ががんばって積極的にかかわっていく、みたいなことがあったら、自分が担当教員なら、ちょっとリスクを考えちゃうなあと思う。自己と他者のハザマに立つ、というのは、精神分析的にいえば「転移」の現象ともいえるわけで、地域でちょっとうまくいってないおじさん目線でいえば、共感性の高そうな女子学生がぐいぐい関わってきたりしたら、ふつう、うれしくなっちゃうよなあとか、それで済めばいいけれど、なんかストーカー的な気分になってきちゃったらこまるじゃないか、おじさん側としても、せっかく世間の片隅で他人と距離を置いて(置かれて?にせよ)ぶじに暮らしているというのにそんなやっかいなことにまきこまれるのはやっかいじゃないか、とまぁ、要らない心配をしてしまうわけである。たとえば心理臨床の領域で教育とか訓練とかする時は、まぁとうぜん「転移」に類することも扱うわけで、それをもちろん主題ともするわけだし、そこに飲み込まれないようにしつつ関わることのできる教育的な仕組みみたいなものもあるわけで、つまり、他者を共感的に理解するパワフルな技法、というだけなら乱暴にいろいろやっちまえばできるかもだけど(極端な話、「自己変容」だけを着地点にするなら、仮にそういう向精神作用のある薬物?とかでも実現できるかもだけどそれってどうなのかみたいな…)、それをちゃんと技法として安定的に扱うことができるかというとまた別のような気はするのだ。まぁ、もちろん著者の人はじっさいに学生指導をしたりしながらじっさいにはそこのところをちゃんとやってはるのだと思うけど。