通勤電車で読む『道徳教室:いい人じゃなきゃダメですか』。著者のノンフィクションのやり口が上手くいってないのでは。

『弱くても勝てます』の、というか、『素晴らしきラジオ体操』の、というか、まぁおもしろいノンフィクションを書く著者の本で、今回のテーマは「道徳」というのである。
このところ読んでいたもの。 - クリッピングとメモ
教育実習巡回指導の電車で読む『素晴らしきラジオ体操』。わらえるし勉強になる。 - クリッピングとメモ
通勤電車で読んだ『トラウマの国ニッポン』。 - クリッピングとメモ
『やせれば美人』。ダイエットをめぐるノンフィクション、あるいはダイエット版・お笑い版・「死の棘」。 - クリッピングとメモ
通勤電車で読む『はい、泳げません』。笑えるノンフィクション界の、〈狂気〉にかんする人類学的探求から〈生きられた身体〉の現象学へ。 - クリッピングとメモ
でまぁ、結論としては、いまいちだったかなあという。タイミングとしては「道徳」の教科化、ということで、道徳の教科書を読んだらずいぶん奇妙でした、というところが出発点。で、上記『はい、泳げません』の感想(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20160606/p2)で次のごとくに書いた。

この著者のものをいくつか読んで、パターンがなんとなく見えてきた。「ラジオ体操」でも「開成高校野球部」でも「トラウマのカウンセリング」でも「ダイエット」でも、とにかくある種のマイナーな領域の人たちを取材して、その「論理」を描き出す。その人たちは何しろ変わったことをやっているわけだから、〈私たちの常識〉からすればおかしな論理であるように思われそうなのだけれど、よくよく取材をしてみれば、彼らの「論理」はそれなりに首尾一貫していて、むしろ〈私たちの常識〉よりも論理的であるような首尾一貫した論理性を有している。そしてその首尾一貫した論理性ゆえに、彼らの「論理」は〈私たちの常識〉が共有している(と信じている)〈現実〉から遊離していくし、そのように〈現実〉から遊離していくゆえの、彼らなりの「論理的な」つじつまあわせが、これまたそれなりに首尾一貫しつつ〈私たちの常識〉から見れば非現実的で滑稽でもある、というぐあい。で、そういう、〈私たちの常識〉からは異質であるような「論理」というのを、〈私たちの常識〉が〈狂気〉と呼ぶのだとしたら、この著者が繰り返し書いているのは、笑えるノンフィクションという形をとった、あれこれの〈狂気〉にかんする人類学的探求のようなものだ、ということもできなくもない。でもって、いうまでもなくそのばあい、この著者の人じしんが、ミイラ取りがミイラであるようなやりかたで、あるいは人類学者が野生の思考の語り手であるようなやり方で、〈狂気〉の語り手であって、だからこの著者のものに登場する変わった人たちはみな同じように見えるし、それはつまり著者その人に似ているんじゃないのということにもなり、エスノグラフィーの登場人物はエスノグラファー本人に似るというわたくしの説がここでもやっぱり確認されることにもなると思うのだけれど、

で、本書はというと、相手が「道徳」ということになる。学校教科としての「道徳」は〈私たちの常識〉からすれば奇妙でマイナーな領域であるとする。そして著者はその「道徳」の論理を描き出す。それが〈私たちの常識〉が共有している(と信じている)〈現実〉から遊離していき、ある種の〈狂気〉として立ち上がる、というふうに進めばいつものとおりなのだけれど、本書では、「道徳」が〈私たちの常識〉とイコールになってしまう。つまり、「みんな」というのが道徳の本体であって、したがって教科としての道徳の内容は、この社会のあちこちになんとなくひろがっている「みんな」に共有されているようにも見えるのだった。それを、サブタイトルのように「いい人じゃなきゃダメ」という言い方をすると、たとえば、世に広がっている「ハラスメント告発」も「いい人じゃなきゃダメ」という道徳の蔓延の事例、ということになる。ハラスメントで告発された人もハラスメントの被害者だ、みたいな言い方が出てくると、これはちょっといかがなものかと感じられるわけで、しょうもない「ポリコレ批判」みたいになる。この世に広がる「道徳」を著者が斬りまくる、みたいになると、なんだか様子がおかしくなるよなあ、と。