通勤電車で読む『プレゼンテーション・パターン』。

『ジェネレーター』からはじまって関連書を読むシリーズ(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/06/18/144547 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/06/14/192456 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/06/27/213140)。『対話のことば』のときと似たような印象をもつ。あとがきで、このブック版では「読み物として読めるように書き直した」ということなので、本書に関してはパターン・ランゲージの形そのものにはなっていないということなのかなと思いつつ、しかしたぶん、そういう書き方の問題ではないところに引っかかりを感じる。『対話のことば』の本が、けっきょくオープンダイアローグの流れに沿いすぎててオープンダイアローグの入門書に見えたのと同じように、本書は、ふつうのプレゼン作成-実践の教科書に見える。パターン・ランゲージってそういうことをやりたかったのか?という違和感がある。「コンテクスト」といういいかたをなぜしているのか、というあたりかな?オープンダイアローグなりプレゼン作成なりのふつうの流れに沿うのであれば、コンテクストなどという言い方をする必然性が見えにくくなる等々? あるいは逆に、これがたとえば『プレゼンのコツ33』みたいなタイトルのハウツー本として成立するか(しそうだ)と考えてみる。すると、バラバラの「コツ」のひとつひとつに「コンテクスト」って言う必要はないよなあ?等々。パターン・ランゲージにおける「コンテクスト」って、どういういみなのか、ということが気になる(ランゲージにおけるコンテクスト、言語における文脈、ということなのだろうけど、それはつまりだからどういうこと?的な)。
あと、本書では、一つ一つの項目に、その項目に関係ありそうなプレゼンにまつわる「名言」がいくつか引いてあったりして、そういうやりかたでなにかアイディアの衝突とアクシデント的創造が起こるように、たんに教科書として流れてしまわないように、くふうがしてあるようにみえる(それこそコンテクストを撹乱するような…)。で、それがパターン・ランゲージがやりたいこととおなじなのかどうか、ということが引っかかるなあと思う(個人的には、よのなかにたくさんある名言集というのはそうとうダメなものだと思っている)。