『建築家として生きる』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2021/06/18/155713 )の著者のひとが新書を書いたというので。まえの本もだったけれど、この方のものを読むたびに、建築家というのがたぶんわたくしたちがごくふつうに思い浮かべる、建築をする人、というのとは異なるジャンルの、狭い狭い異様な世界の人たちなのだろうなあということを知る。建築の勉強をする建築家の卵たちは、しだいに、町を歩いていて、「建築」とそれ以外の「建物」を峻別するような ー そして、建築家が作る「作品」として評価されうる「建築」だけに目が行き、それいがいのタテモノは目にはいらなくなってくる ー のだそうだ。建築雑誌に載って建築家の世界で評価されるような「作品」を作るのが建築家、なのだそうで…そのはなしを何度読んでも、そんなやつおるかいなと思ってしまうし、もしいたところで社会の片隅のごく少数の、マニアックなジャンルのアーティストの界隈みたいなところにいるのだろうと思うのだけれど、しかし、有名建築家というのもテレビで見たりするわけで、なんかへんな世界なのだなあということはなんとなくわかる。有名建築家というのは建築家の世界の頂点にいるわけだけれど、そこを中心として、無名だけど一応食えている建築家とか、食えてない建築家とか、建築家の卵とか、そういうひとたち、あるいは、建築家にあこがれるけどなれなかった人たちとか、ゼネコンやハウスメーカーで働いたり、まぁふつうに普通の家を設計したり、そういう、(わたしたちは常識的にそういうひとたちも建築家なんでしょ?と思うけれどそうじゃないらしく)建築家ではない人たちがいて、まぁヒエラルキーなのか何なのか、ひとつの「界」ができていて、それはなるほどたしかにブルデュー式の図式に当てはまりがいいようにも思える。その界の内側で、教育を受けているうちに、「建築」と「タテモノ」を見分けてしまうハビトゥスが涵養されてしまうなどというのは不気味なはなしである。
でまぁ、そういうわけで、この本の前半は、ブルデュー入門みたいな章も含め、なかなかブルデュー感のあるおはなしになっている。で、しかし、ところが、その「建築界」みたいなのが、解体してしまっているよ、というのがこの本のタイトルであり、オチであるわけで、それは、近代が後期近代に移ったから、というのがひとつ、あとまぁバブルが一瞬の夢を見せたけれどその崩壊した後の不景気で、まぁ建築作品どころではなくなったよね、ハコモノなんていちばん悪とされるようになってきたと、まぁそれはそうだ。で、「建築界」が解体されたあとに、建築をこころざす人たちがなにを始めているか、というのがこの本のオチになっている。そのオチにかんしては、ブルデュー的な図式が通用しなくなった後の話なので、まぁだからブルデュー関係なくなってるだろう。そして、わたくしは他人に金を出させた他人の所有物を自分の作品みたいな料簡でいるようなやつは大嫌いなので、この本のオチのあたりのはなしになってようやく、そりゃそうなるよね、はいはい、というフラットな心で読める。
ところで、前半のブルデューのあたりについて、「学歴」が資本だ、と言っているけれど、なぜどのようにして、どのような意味でそうなのかというのはあまり説明されてないように思える。「一級建築士」という国家資格試験合格に対する学校教育課程修了という意味なのか、専門学校に比べた「大学」という意味なのか、おなじ大学の中でも有名建築家を多数輩出する「東大」他少数のみを意味するのか。前の本では「一級建築士」というのがクローズアップされてたように感じたけれど、本書ではほとんどその話題はないように見える。ハビトゥス形成のはなしのときは、専門学校vs大学、みたいなことかな、と思っていたけれど、「学歴が資本になる」とか「資本がある」とかいう言い方では、おもに東大とかのことを言ってるようにも見える。じゃあたとえば東大ではほかの大学とちがうどのようなハビトゥスが形成されて資本になっているのか、ということが具体的に書いてあったらよかったなあと思った。教育社会学の学歴社会論だと、まぁそのへんはいろいろなことが言われているので、せっかくそれとは違う領域で学歴=資本とかハビトゥスの話が出てきてるので、やはりいろいろ知りたいところではある。
あと、これはたんじゅんに気になったのだけれど、本書では、ちょっといいよどみながらではあるけれど、建築家の「作品」を「賭け金」と言っている。しかし、自分的には(ブルデュー的な語法としてどうかは別として)「指し手」みたいなことばのほうがしっくりくると思う。ていうかたぶん、ルーレットみたいなゲームで、チップを「賭け枠」(赤の14、とかああいうやつ)に置く、とか、サイコロ賭博で丁とか半とかに賭けて賭け金をどかどか置くとか、そういうイメージ。建築家ゲームであれば、もともとの資本は財産とか学歴とかということだろう。で、それらを活用して賭けを行う。たぶん資本が多ければ有利なポジションから勝負を始められるとかなんとかそういうことか?で、そのばあい「作品」は、「何」で勝負するか、ということなので、指し手というか、赤の14というか、そういう手を選ぶことに対応するだろう。そこにどれだけのリソースを積む(ことができる)か、それによってどれだけのリターンを得ることができるか、というのが「賭け金」ということで、それは指し手そのものとは別次元のことだ。じゃないかなと思いながら読んでた。