通勤電車で読む『会話を哲学する』。
まえに読んだ、『話し手の意味の心理性と公共性』( https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/05/15/102513 )の著者の人の新書。会話を哲学する、というのが会話分析とどのように「やりたいことがちがう」のか、とかなんとか思いつつ読んでた。小説やマンガや映画なんかの場面の会話を例にしつつ、会話を哲学するよと。まず、会話というのを、「コミュニケーション」という営みと「マニピュレーション」という営みとの、ふたつの観点から見ていくよ、というところからはじまる。コミュニケーション、というのは、会話者たちがことばのやりとりをつうじて約束事を形成していく営みだ、ということで、「おわりに」によれば前著で紹介されてた「共同的コミットメント」というのに相当するよと。ふむ。読みながら、約束事って、文脈のことだよなあと思ってたら、あとでやっぱり文脈という言い方も出てきた。相互行為でもって文脈を協働的につくりあげてくよ、というのはわかる。で、「マニピュレーション」というのは、発話によって相手を操作しようとすることだ、ぐらいのことなのかと。コミュニケーションとマニピュレーションは、ぴたっと一致してたり、逆だったり、マニピュレーションがとくになかったり、いろいろだね、と。で、そこから、その道具立てを使って、言質を取らせないように気持ちを伝える場面とか、わざと言葉の文字面と逆の意味を示唆する場面とか、あるいはコミュニケーションが成立しなくて「共同的」なものが成立してないのにしているテイを押し付けられる(意味の占有をされちゃう、そこに社会的な力関係の作用が読み取れる)場面とか、あるいは、コミュニケーションの文字面とは別のマニピュレーションをたくみにやって相手を操作する場面とか、そういうのが観察されていく。ふむ。文字面どおりの言葉が真か偽か、真であるように責任を負うか、責任を逃れるか、相手に責任を負わせるか、結果責任を負わせることができるように言葉の文字面をたくみに配置して相手をマニピュレートするか、みたいなことに焦点をあわせているのかしらと感じた。いやそういうまとめかたは哲学というものに対する偏見なのかしら。この著者の方は、たしかEMとかのかたとのセッションもしてはったような、なにかTwitterでそういうのを見かけたようなかすかな記憶もあって、そこでどんなやり取りがあったのかにも興味がわく。