通勤電車で読んでた『あなたの心配ごとを話しましょう』。オープンダイアローグっていうか「アンティシペーションダイアローグ」のテキスト。

オープンダイアローグ、というワードで出てきた本なのだけれど、のっけから、「オープンダイアローグとほとんど時を同じくして「ダイアローグの思想」を共有しながら発展してきた「未来語りのダイアローグ(Anticipation Dialogue: AD)」の本だよということのよう。まぁ、やっていることはたぶんそんなに違わなくて、ODが急性期精神疾患の改善に効果をみせてたように精神科とかの領域で実践されてるというのにたいしてADはもっと広い対人援助で活用されるよ、みたいな導入。この本は、ADの開発者のひとがおこなっている研修のテキスト、のようなものらしい。
でまぁ、どんなものか、というと、たぶん看板通りの「Anticipation Dialogue」だよ、というところからはいるといいんじゃないかと思ったのだけれど、まずこの翻訳を「未来語りのダイアローグ」とすると、自分的にはちょっとイメージがずれるなあというかんじ。未来、というと、なんか将来の夢や希望をポジティブに語り合いましょうみたいに聞こえかねないけれど、そういう話では全然ないし、なんなら「未来」ということばもあんまりでてこない。本文でよく使われるのは「予測」ということばだし、まずとっかかりで強調されるのは、「心配」ということ。つまり、これから先に起こることを予測して心配する、みたいないみで。で、この本は対人支援の専門家の人たちがダイアローグをうまくできるための手引きなのだけれど、さいしょに強調されるのは、この本の邦題どおり、「あなたがあなたの心配ごとを話し、あなたが助けを求め、あなたの心配ごとを小さくするのです」ということ。えーとつまり、この本の邦題の『あなた』というのは、誰かのことではなくてまさにこの本を読んでいるはずの、支援の専門家の人、ということになる。えーとつまり、たとえばある子どもが不登校気味であるとすると、ふつう、そのケースは、「不登校の子どものケース」みたいに言われるかもしれないけれど、それだとうまくいかない。そうじゃなくて、たとえば学校のカウンセラーのあなたが、その子について「主観的心配」をいだいて、そのことについて、他のスタッフや専門家や親や関係者や子ども自身?に「自分の主観的心配について話し、助けを求める」のだよ、という構えをとる。えーとつまり、そうしないと、専門家が「この子どものケースはどうのこうのである」とか偉そうに決めつけたり、他のスタッフや親はそれぞれ「この子のことは私が一番知っているから黙っとれ」みたいになったりして、ぜんぜん協力体制ができない。なので、あくまで「自分はこの子を見ていて、このままだとまずくなっちゃうんじゃないかと主観的心配を覚えるのだけれど、その心配を解決するのを助けてくれませんか?」というと、お互いにできることを相談しながら協力体制ができるかんじ。なので、「Anticipation」というのは、まぁ「予測」というか、まぁ「見通し」みたいないみあいで、つまりたぶんざっくりいっちゃうと「専門家による診断」の対義語みたいないみあいで言ってるように、思える。原因論は置いておいて問題解決を目標としましょう、そのほうが、多様な専門家や非専門家や関係者みんながフラットに連携して対話できるよ、ダイアローグによってネットワークがつくれるよ、みたいな。なので「未来語り」というよりはずいぶん散文的というか実務的ないみでの「Anticipation Dialogue」なのだろうな、と思いながら読んでた。