『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』『いずみさん、とっておいてはどうですか』。高野文子の誕生日。

ロラン・バルトの、ミヒャエル・エンデの、あるいは高野文子の誕生日ということで、買っていた高野文子関連の本を。のまえに、いつからか毎年、丹生谷貴志をなぜか読むことになっているので(前日がヴォネガットの誕生日で、そしてちょうどその日にヴォネガット論を読んだことがきっかけだったような)『女と男と帝国』の「「帝国」をめぐる演習―ヘーゲルスピノザ」を再読。また『ドゥルーズ・映画・フーコー』の「持続と記憶」を再読。で、高野文子
『ぼくがゆびをぱちんとならして…』のほうは、斉藤倫という詩人の人の本で、表紙と挿絵が高野文子。なのだけれど、挿絵はほとんど簡単なイラストカットがいくつか。では高野文子を期待していたのにざんねんだったかというと、高野文子をきっかけによい本が読めたというかんじでよかった。たぶんひとりぐらしの、本好きの「ぼく」の家に、小学生の男の子の「きみ」がちょくちょくやってきて、なにかしゃべる。「ぼく」は本棚から本を出して、開いて見せる。「きみ」はそこに書いてあるいろいろな誰かの詩を読む。でなんかしゃべる。で帰っていく。みたいなかんじの内容。この本そのものが斉藤倫という詩人の詩なのか、というと、詩のことはわからないけれど詩は自由なんだからそういう気もするし、まぁ、子ども向けにいろいろな詩人の詩を紹介しながら詩というものについて解説する物語ですよと言ったほうが通りは良さそうな気もするし、そういう物語のていさいをとって詩人が詩についての考えを語ったものですよという気もするし、まぁそれはどれでもいいしどれもあるだろう。
『いずみさん、…』のほうは、著者のクレジットが「高野文子昭和のくらし博物館」となっている。まず、東京に「昭和のくらし博物館」という博物館がある、と。建築技師の小泉孝という人が戦後まもなくに建てた家があり、その娘で生活史研究者の小泉和子という人がそこを住宅の間取りのまま博物館にして、昭和のふつうのひとたちの暮らしを伝える展示をおこなっていると。
www.showanokurashi.com
で、そこに、東京の豊島区に住んでいた、だいたいこの博物館とおなじぐらいにうまれた姉妹から、まるでタイムカプセルみたいな子ども時代のあれこれの入った箱が送られてきたと。お人形だったりおままごと道具だったり日記帳だったり絵だったりいろいろ。で、それが「特別展示「山口さんちの子ども部屋」展」という企画展になり、そして高野文子はその展示監修ということになっているようだ。で、それがこの本にもなったということのよう。で、これもだから、高野文子の絵そのものは主役ではなくて、なによりその「タイムカプセル」からあらわれたあれこれが主役。まぁ、この姉妹の両親はどちらも歴史研究者だったようで、東京豊島区に居を構えて、まぁそれを庶民と呼ぶのかどうかはよくわからないけれど、そういうことをいうのは野暮なので今日は言わない。そして、この本も、高野文子が主役ではないけれど、高野文子きっかけでよい本が読めたなあというかんじだし、なんていうか、高野文子の描く( https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20051015/p1 )時間や空間、記憶のあらわれかたの、胸が痛くなるかんじとおなじ質のかんじがある。