…両査読者の意見を受け入れた論文が、その結果、見通しがよくなって、余分な枝葉がそぎ落とされて、元々あった欠陥を露わにしてしまうことが、しばしばあるのである。
みたいなことがざっくばらんに書いてあって、まぁそういうばあいは率直にそのように伝えるしかないわけだけれど、投稿した人は(とくに減点法的なイメージを持っていると)がっかりしちゃうだろうなあと。でもまぁそれはその論文が前進したってことに違いはないんだからがっかりする必要はないんだけどね。
あと、座談会では、いまの大学院の指導の機能が落ちてて雑誌の査読システムがその肩代わりをしている、みたいなことがしれっと書いてあって(たしかに『新社会学研究』はとても丁寧で親切な査読システムであるように読めるが、これは本書が同誌の宣伝の意味も兼ねているのかもと思われなくもない)、それはしれっと書いて流して済む話ではないだろうし、それがボランティアの査読者によって支えられているということを「査読投稿システムは価値合理的なのだ」と言って済ませられるのかもよくわからない。個人的には、(いつもそればっかし言ってるわけだけれど)「研究者のコミュニティ」すなわち具体的には学会と研究者個人のあいだにある中間的な集団、大小の研究会が、機能しなくなってきている、ということなんじゃないかと思うので、従来であればコミュニティが(それこそ互恵的に)担っていた教育機能を、査読システム(というのはやはりどうしても形式的で匿名的で不自由ににならざるをえないのだけれど)に付け替えれば済むというものではないだろう、そんなことをしたらしたでまた不具合が起こるとか、ある雑誌ではできてもほかの雑誌では悲惨なことになるとか、起こるんじゃないかなーとは思う。