少し前に話題になっててみようと思ってたのを見た。さいしょちょっと鬼太郎が出てきて、それから昭和31年に時間が戻って物語が始まる。戦争を通じて国策と結び隠然たる力を持った製薬会社、龍賀製薬の創業家である龍賀一族の当主が亡くなり、南方帰りの水木という男が会社の密命を受けてたぶん鳥取あたりの隠れ里的な村にある龍賀家を訪ね、屋敷で行われていた遺言状の開封の席に立ち会うことになる。遺言の内容は、大方の予想を覆して、現社長である娘婿ではなく、精神に異常をきたしている長男を当主とするもので、それが禍々しい物語の始まりとなる。翌朝、当主となった長男が惨殺体で発見される。水木は現社長の客人として屋敷にとどまり、ひょんなことから、村で捕まったもうひとりの余所者「ゲゲ郎」を座敷牢で監視することになる。あれやこれやしているうちに第二、第三の猟奇的な殺人が行われ…というと、なんだか横溝正史っぽい。呪われた因習村のひとびとの中にあって、現社長の娘は屋敷の中で育てられた薄幸の美少女というかんじで、そのあたりも横溝正史にそんなのなかったかなと思うのと同時に、なんかゲゲ郎も水木もシュッとしててぜんぜん『鬼太郎』っぽくないし、むしろルパン三世における『カリオストロの城』や「さらば愛しきルパンよ」みたいなかんじなのであった。『カリオストロの城』や「さらば愛しきルパンよ」がルパンである程度に本作は鬼太郎映画だ、というかんじ。まぁ途中まではそんなかんじ。
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そうそう、本作は『ゴジラ-1.0』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/11/05/004657)の少し後に公開されて、時代設定やテーマが近いというので話題になった覚えがある(ていうか当時その文脈でちらほら見かけて印象に残っていた)んだが、まぁ「特攻文学」にみえる。
bunshun.jp
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てっきり井上先生がTwitterかなにかで言及してたと思ったんだがいま検索してみたら見つからなかった。でもまぁ『ゴジラ-1.0』と合わせて話題になったというのは本作の「特攻文学」性からだと思う。両者の違いについてはちょうど見つかった上記の河野氏のテキストで語られてるけど、まぁそれはそれとして本作は最終的には「特攻文学」なんだろうと思う。
でまぁそうなると、よし悪しというところもあって、なにしろ【特攻文学要素メーター】というのが頭に入ってしまってから見たことで、「あ…未来を語ってるわ」「あ…父になったわ」「あ…自発的に行動したね」みたいなかんじで図式が目に付いちゃうようになるってのはある。こういうのは「構造読み」の呪い、みたいなものですね。