通勤電車で読む『学校教育を変える制度論』。

学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために

学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために

昔に買っていてつんどくになっていたのを引っ張り出して読んだ。「制度論」とは何ぞや、というと、精神医療の分野でそういうのがあるのだそうで、ガタリさんなんかの実践がそれであると。そうするとこれ、「制度論」という自称が通用するのは精神医療の内部だけでしょうと当然思って、つまり精神医療がふつう患者の精神にばかり焦点を絞っていたのをガタリさんたちが社会制度にむしろ照準したというのはわかるけれど、それはもともとの精神医療がそうだったからめずらしいのであって、精神医療の内部であればガタリさんたちは珍しく制度を扱う流派ってことになるけれど、精神医療の外に出てふつうにかんがえれば制度に注目するものの考え方は山ほどあって、たとえば社会学はたいてい制度論だ。そして学校教育について制度を研究するのは教育社会学がやっているしごとである。じゃあ教育社会学でいいじゃんということになりそうだ。
でもって面妖なのは、この編者の人は、しきりに教育社会学がダメだダメだと力説するんである。フーコーを浅薄に理解して、ちょっと歴史をつついては何とかの構築とか何とかの誕生とか安易に量産してるからということのようなのだけれど、まぁおっしゃるきもちがまったくわからんわけではないにしても、しかし浅薄なものもあるけれどちゃんとしたものもあるだろうと思うわけである。そしてさらに面妖なのは、この編者の人はそういう教育社会学攻撃を、具体的などの研究がということをたぶんあんまし言わずにひたすら攻撃ばかりするので、そんな浅薄な教育社会学などというのはじつはこの編者の人の心の中だけにあるものなんじゃないかという気もしてくるし、また、数少ない具体的な名前が挙がって引用もされている教育社会学者が、酒井先生であり、またとくに広田先生であり、そうするとここで批判されているのは酒井先生や特に広田先生なのか、と思うとこれがさにあらずで、この編者の人は、酒井先生や広田先生の議論を援用しながら、教育社会学を攻撃してるんである。ふしぎふしぎ。