通勤電車で読む『なぜ人と人は支え合うのか』。これはよいちくまプリマ―。

研究室で学生さんに薦める新書本リストの中から未読のものを読むシリーズ。これはよかった。

通勤電車で読んだ『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門 』。

こういうタスク管理系の入門書を、できれば新書で、学生さんに勧めたらはやいんちゃうかといつも思っている。で、この本、導入はけっこういいかんじで、コンビニのバイトのときのちょっとした工夫がタスク管理になった、というあたりは、学生さんにも響くだろうなーと思った。んだけれど、3章あたりからの具体的内容が、リストのあれこれ、みたいな言葉の紹介みたいになってて、うーん、そこはもうすこし具体的実践例から入ってくれる方が学生さんたちに響くだろうなーと思いながら読んでた。言葉の整理とかはけっこう網羅的で、それはそういう意図で、整理するぞということで整理して言葉の紹介をしてるんだと思うし、まぁ、自分自身的にはこの手の本(この著者の本をふくめ)をけっこう追っかけて読んだような人種なので、言葉の整理とか紹介とかはありがたいんやが、学生さんが人生の一冊目に読むことをイメージすると、なんかもうちょっと構成のしかたはあったかなあとは思った。

『大学卒業研究ゼミの質的研究』読んだ。正統的周辺参加とか状況的学習論とかの博論本という。

例によってTwitterかなにかで見かけて、面白いかもと思って読んでみたら、予想に反してごりごりの博論の書籍化で、正統的周辺参加とか状況的学習論とかにまじめにとりくんだというものだった。著者の人が、ある大学のあるゼミをフィールドに、観察とかインタビューとかしてGTA的なまとめ方も取り入れて、いろんなモデルを「生成」したりしている。この大学は、3年生からゼミに配属されることになってると。で、このゼミは、特色として、3年生と4年生をペアにする「ブラザー&シスター制度」というのをやっていて、4年生が3年生にいろいろアドバイスしたり3年生が4年生を手伝ったりするしくみになってるらしい。ところで、このフィールドになっているゼミというのは、著者の人の出身研究室でもあり、ゼミの先生は著者の人の師匠でもありこのテーマに関連して共著もあるという学習理論(だけではなくてもともとは心理学のひとらしいけど)の研究者であるようだ。とすると、まずぱっと思い浮かぶのは、この研究室のゼミ運営が、もともと協同学習とか学びの共同体とかみたいなことを念頭に設計されてるのだろうな、ということ。そうすると、この著者の人がこのゼミをフィールドにして見出すことは、けっこうあらかじめゼミの先生が意図的に仕組んだことなんじゃないか、という気がしてくる。それはそれでかまわないのだけれど、だとすれば、たとえばこれが仮に卒論だとして自分が卒論指導をするのであれば、とりあえずはまずその独特のゼミ運営形態を設計したゼミの先生に、その意図とか、工夫したところとか苦労したところとか、先生の目から見て狙い通りいっているところとか、狙い通りいかなかったところとか、思いがけない効果があったところとか、そういうのをインタビューしたら?と言うと思う。たぶんそのへんの情報がまずあれば、ずいぶん見通しがよくなったんじゃないかなーと思う。まぁ、大学で先生などをやってて、まぁ専攻のカリキュラムを組み立てたり研究室の運営なんかやっていると、そりゃまぁ、学年を超えた学びの共同体ができたらいいなあと思うわけだし、まぁそういうのがたまに成立すると喜んだりするわけだけれど、そういうのと、この本に取り上げられたゼミのような、たぶん意図的に設計されたゼミのケースとで、どうちがうかとか、どうやったらうまくいきましたのTipsとか、そういうのがあるとありがたいなーというのもあるし、あるいは、意外と、意図的に学習理論に基づいて意図的に設計したつもりの部分がさほど機能してなかったりしたら、それはそれでおもしろい。まぁ、あと、この本を読んでて、なにかちょっと物足りないなあと思わなくもなかったのは、これ、学習理論の研究だと思うのだけれど、じっさいにこのような学習が行われた、こんなパフォーマンスがあがった、というほうにあまり話が行ってないんじゃないかというか、たとえば「ブラザー&シスター制度」が機能したことによってそれが存在しない他のゼミと比較してこのような学びの相違が見られました、とか、そういうのがもう少しありありと押し出されてたら、自分的には満足したかなあと。

『人生万歳!』みた。ウディ・アレンが出てないけどウディ・アレン感の手数が多い。

人生万歳! [DVD]

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つんどく状態になってるウディ・アレンを見ていくシリーズ。これはウディ・アレンが出ていないけれどウディ・アレン感が満載というか、ウディ・アレンで見たよねというのを手数多く打ち出している。例のごとき黒地に白文字のタイトルバックが終わると、NYのカフェでおっさんたちがなにかくだらない話をしている、というのがすでに既視感で、そしてそのうちの1人がちょっと偽ウディ・アレンというかんじで、それがいきなりカメラ目線でスクリーンのこちらに話しかけたりする。で、その偽ウディ・アレンというのが負け犬インテリの偏屈で神経症で皮肉っぽい理屈ばかり始終喋っているおっさんというかじいさんっていうかだからようするにウディ・アレンの主人公で出てくるタイプ、だからようするに偽ウディ・アレン。でまぁひょんなことから若くて美人でスタイルが良くて頭が弱くてお人好しで不遇な家出娘が転がり込んできて、まぁどうのこうのあって、ほろ苦いというかペーソスの滲むエンディングに。というかこれだけ毎度同じパターンの都合のいい女子を登場させて都合のいいはなしを飽きもせず繰り返して、どんだけきもちわるい夢見がちの負け犬インテリおっさんの願望まるだしなのかと。またそれを見てまんぞくしている自分も自分であることはいうまでもない。これで主人公をウディ・アレンがやってたらいうことなかった。ウディ・アレンがやっていたらたぶんもうすこし主人公が貧弱で気弱な感じになって、尊大でいやなじじいという感じが減って、よりいつものウディ・アレンになっただろうから、本作の本作らしいごくわずかな点も薄れてしまうだろうけれど、ウディ・アレンを見るというのは毎度おなじみの自己憐憫をまんぞくさせるようなことなので新機軸など求めていないというのもある。ていうかそもそも論としてウディ・アレンを見るというのは、主人公のウディ・アレンに自分を重ね合わせて、ひょんなことから若くて美人でスタイルがよくて頭が弱くてお人好しで不遇な家出娘みたいなタイプの女子に好かれたような気になってみたり、まぁ少なくともそういう事態も理論的には可能性がゼロではないはずだ等々思ってみたり、でも何しろ自分は皮肉屋のインテリなのでそれが夢であることは百も承知なのでエンディングには皮肉でペーソスのまじった結末が用意されているのもわかっている、みたいなことなので、だからあれです、主人公のタイプが変わってしまうというのは毎度おなじみの観客からは、そこを変えたら自分が重ねあわせにくいじゃないかという意味において都合が悪いってのもある。

『世界の半分、女子アクティビストになる 』読んだ。

世界の半分、女子アクティビストになる

世界の半分、女子アクティビストになる

今日は学外の公開講座のコーディネート役のおしごと。行き帰りの電車で読んでた。声を上げる、ということについての、女子のための、DIY的なテキスト。

通勤電車で読んだ『世界は四大文明でできている』。

「企業トップが学ぶリベラルアーツ」というシリーズで、なんかそういう偉そうな人たちを集めてリベラルアーツの教養を養うような研修をやるような「不識塾」なるのがあるそうで、それをもとにNHK新書がシリーズを出したということで、これは橋爪大三郎編。それでまぁ、橋爪というのと、教養というのが、自分の中でしっくりいかないというか、橋爪本の面白いのは、より少ない原理の組み合わせでシミュレートしていろいろな現象を説明しちゃうというところにあると思って、そうするとそれは、豊かな教養、というのとは逆のような気がするので。それで、企業トップとかなんとかいう偉そうな人たちが橋爪大三郎の講義を聴いて教養が高まったような気持ちになるという絵はちょっときびしいかんじがしなくもない。それはそれとして、この本の内容的にはまぁ、例によって単純化と強引さが面白さになっているような内容で、面白かった。