『リュミエール・ザ・フィルム』。最初の映画が撮りたかったのは、運動だけでなく、奥行きの遠近法だったのか。

昔にテレビでやってて録画してたのをDVDに落としがてら見直すシリーズ。「映画100年」にあわせてフランスのテレビ局が作成したという番組で、リュミエール映画をどんどん紹介していく90分番組が2本。ところが、ビデオテープが古いせいか、当時の下宿のBSの受信状況が悪かったせいか、相当画質がわるくてとくに後半はかなりぐじゃぐじゃのノイズが入る。ともあれ、ある意味では画質が多少のことなら悪くてもかんけいないような映画で、なにしろもとのフィルム自体が100年以上前のものだ。
で、こういうの見ると、学生に見せたらどう言うかしら、とか、学生が撮るビデオとどう違うかしら、とか思いながら見るわけで、そうするとなによりの感想は、遠近、奥行きというのを使ってるなあ、ということ。「列車の到着」なんかのかんじ。奥行きを深くとった遠近法のはっきりした構図で、その奥から手前に向けて列車がぐうーっと走ってくる。同じように、遠近のはっきりした並木道を自転車が走るとか、軍隊やら群集やら乳母車を押す女たちとかの行進なんかも。逆に、小船が海に向かって出て行くところ、なんてのは手前から奥に、だし、また、ベトナムだかカンボジアだかで駕籠に乗ったキャメラマンを子どもたちが追いかけて走るトラックバック的な移動撮影とか。傾斜地や階段をZの字に手前から登っていく行列とか。そう見てみると、「工場の出口」も、奥から手前に人々が湧き出してくるかんじが同じだともいえるし、また、奥行き方向の運動が直接とりあげられてなくても、ひとつの画面の中での手前と奥の使い方が意識されているように思えて、たとえば「水をかけられたカード遊びをする人」なんてのは、手前にカード遊びをする人たちがいて、それがけんかを始める、いっぽう画面奥では庭師が水をまいていて、それがけんかを始めた手前の人たちに水をかける、で、手前の人たちが画面奥の庭師のところに行き三人でもめる、みたいな構成で、これも奥行きをダイナミックに使ってる。
こういうのは、絵画のいわゆる「構図」というのとは違うわけで、映像が「動く」ことではじめて見出されたものなんだなあと。たとえば同じ遠近法でも、ただ絵画の平面上の手前と奥に大きい人と小さい人を描くだけよりも、映画で画面奥から手前に行進してくる人がどんどん大きくなるというほうが奥行き感がある、っていうかまったく別世界なわけで、そういういみでは、絵画が2Dであるのに対して映画は3D、絵画や写真に対して映画が獲得したのは時間とか運動とかいう言い方と同じように、奥行きの次元やったんやなあ、という。
というわけで、この初期のフィルムは、これでもかというぐらいの奥行きの感覚を追求してる。
学生の撮る写真はいつどこでどんな機会に撮ってもみんな仲間内のVサイン顔写真ばかりで、ビデオも同様の、友達のだれそれの顔アップとか、「なんとか君でーす・・・食べてまーす・・・おいしいですかー・・・おいしいそうでーす」とかそういうのばかりなわけだけれど、たとえば上に挙げたDVDのamazonのカスタマーレビューで

今に繋がってくる映画の元の元です。
内容はシンプルと一言で言えます。
例えば工場の入り口付近を映しており、ただ仕事が終わると流れ出てくる人の光景だとか。
CGを駆使した綺麗な映像もいいですが、白黒の素朴さも素敵ではないでしょーか?

なんて書いてあると、何を言っているのか、と思ったりもするわけである。