芹沢一也『狂気と犯罪 なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』

某所で紹介されていた。フーコーだそうです。ふむふむたしかにおもしろそう。

狂気と犯罪 (講談社+α新書)

狂気と犯罪 (講談社+α新書)

出版社 / 著者からの内容紹介
強制治療は人道主義の仮面を被った「保安処分」だ
無秩序に収容されてきた精神障害者たち
患者数、病床数、入院日数のすべてが世界一。精神障害者を取り巻く、驚愕の歴史と現状!!
江戸時代の刑事裁判、そして明治に入ってから旧刑法のもとにあった裁判も、関心を寄せていたのはただ犯罪という事実であった。そこで問われていたのは常に、「おまえは、一体どのような『犯罪』を行ったのか」ということだった。だが、われわれの時代の刑事裁判は、そうではない。犯罪事実だけでなく、さらに犯罪者の性格を考え合わせた上で、刑罰を決定しなくてはならなくなったのだ。ここでもまた、個性が問題となったのである。そこでの問いは、したがって次のようなものとなった。
「このような犯罪を行ったおまえは、一体『何者』なのか」
われわれの刑事裁判は犯罪行為とともに、あるいはそれ以上に、法を犯した人間そのものに関心を向けなければならなくなった。犯罪者の性格をも同時に、裁かなくてはならなくなったのだ。
●徘徊する浮浪者を排除せよ
●文明と裸体の取り締まり
精神障害者管理は家族の責任
●無用とされた精神病治療
●江戸時代と刑法第39条
●法の世界から排除される「狂気」
精神障害者の人権か社会の治安か
●精神病院ブームへの公的援助
●触法精神障害者という厄介
●「狂気」の脱犯罪化へ
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
芹沢 一也
1968年、東京都に生まれる。慶応義塾大学大学院社会学研究科博士課程を修了。社会学を専攻する傍ら、大正期を中心とする近代日本の思想や文化、社会に研究分野を広げる。京都造形芸術大学で日本文化論、学習院大学で日本政治思想史を教える非常勤講師

ま、しかし、
フーコーものちうのは、まぁ、方針が決まっていてあとは歴史資料をあたればたしかに出てくる、みたいなところもあるわけで、へたすると一丁上がり式に出来上がっちゃうのもあるわけで、
学会発表とかでひところそういうのが流行ってたなあという印象もなきにしもあらずで、
そういうとこからいえば、まぁこの目次だけから見るとこの本はかなりおもしろそうだし一丁上がりでもなさそうなのだけれど、
まぁ、出すタイミングちうのがあるネタだとは思いますな。
で、
なんどもくりかえすのだけれどドゥルーズの「追伸−管理社会について」ちうのが決定的なテキストで、フーコーの言ってた構図から、半歩、先に進む手がかりになると思う。

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

ばくぜんとそういうことは考えていたのだけれど、うまくピシッと言葉に落とし込めなかったのが、かなり明快に構図化された感じ。

たとえば、アリエスとかフーコーとかのラインで家族論をえっちらおっちらまとめていた時に、
雑誌『現代思想 2004年9月号 特集=家族とは何か』所収の、
「ポスト家族の時代 家族と管理社会」毛利嘉孝
を読んで、
おお、そうじゃん!これじゃん!と思いながら、まぁそれで自分の書くものの方針が変わったかというと変わらなかったのだけれど、
少なくとも、「次はこのラインが出発点だな」という感覚を持ちながらじぶんのものをまとめることができたのはよかった。
あと、いま宙に浮いている逸脱論とか、まさに自分で考えてうまくまとまらなかったものをうまくまとめることができるようになるかもしれない。