仏語巡る発言で都知事訴えた原告敗訴

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20071214/20071214-00000041-jnn-soci.html

「フランス語は数を勘定できない」といった石原都知事の発言をめぐり、日本在住のフランス人らが知事らを訴えた裁判で、東京地裁は原告側の訴えを退けました。
 「まあ、当然の結果だと思いますけどね。何でも気にいらないから裁判すればいいってもんじゃないでしょう」(石原慎太郎 都知事
 石原都知事は4年前、都立大学の再編に関連し、「フランス語は数を勘定できない言葉で、国際語として失格」などと発言しました。
 この発言をめぐり、フランス人ら91人が社会的信用を低下させられたとして、知事らを相手に総額2000万円あまりの損害賠償などを求めていました。
 東京地裁は14日、「フランス語に携わる者に不快感を与える、配慮を欠いた発言だ」とする一方で、「発言は特定の人に対するものではなく、原告らの社会的名誉を低下させるものではない」として、原告側の訴えを退けました。(14日15:16)
[14日19時10分更新]

はてさて。
自分的には「?」という感じ。
裁判の判断の基準っていうのがもひとつわからないけれど、

発言は特定の人に対するものではなく、原告らの社会的名誉を低下させるものではない

という理由付けは、ようするに、

ある範囲(「フランス語に携わる者」というカテゴリー?)をもった不特定の人に不快感を与える(ことをあらかじめ十分予測したうえでの)発言が公的に行なわれても、(そのカテゴリーに属している)特定の個々人に対する発言ではないために、その社会的名誉を低下させるものとはみなさない、

ということなのか?
ところでまた、
この裁判の報道を最初に聞いたときに、自分は、「また石原の排外発言かよ!」と不快感を覚えたわけで、そこから考えていけば、自分は日本人でフランス語など喋れないのだけれど、「フランス語に携わる者」というカテゴリーになんらかのかたちで属していると考えていけるのでは、と思いついた。
「携わる」って何?というはなしである。
たとえば、「国際社会」なるものがあったとして、その中で日本語を使って平和に生きているということは、イコール、日本語以外の諸言語やその言語諸集団とおたがいに尊重しあって共存するということであって、イコール、どれかの言語が不当に貶められるときには共存する全ての言語が貶められているということであり・・・
みたいなかんじで・・・
まぁあんましどうでもいいかんじではあるが。
ついでにいうと

フランス語に携わる者に不快感を与える、配慮を欠いた発言だ

という言い方で、裁判所は「特定の」発言だけを取り出して言っているわけだけれど(それはこの裁判そのものがそういうことになっているからなのだろうけれど)
石原という人はこの手の発言(というのはどういうカテゴリーなのかね)を、恒常的にやっている(一連の発言のあいだにカテゴリカルな同一性を観察することができる)わけで、その意味では、「特定の」発言だけを云々してもしゃないような気はする。個別の特定の発言ではなく、それらを含むところの「この手の発言」というカテゴリカルな同一性を持ったもの、しかもそれがどうやら、石原という人称的同一性を持った存在に帰せられるであろうという、その事態に対して、言及して欲しかったものだ。
そうすると、裁判というプロセスを超えるのでしょうが、裁判所にほんとに認めて欲しかったのは、

フランス語に携わる者に不快感を与える、配慮を欠いた

ということなのだと思う。
いやまあしかしまぁあんましどうでもいいかんじではあることにまちがいはないな。